地上天国(ミロクの世)の住民への道も一歩から

 

 

 

 

 

この世の大峠(艱難時代)に入る、

その前に

自分好みの神様(信仰)を

見つけることを

勧めずにはおられません!!

 

 

 

 

 

法華経 キーになる概念!

人間を越えた人のためのチャンネル

 

 

 

左進右退の働きが徐々に

大きくなっていく

その前に

 

 

 

 

世界救世教

 

◆神の意図は人智を超える

~省略~

つまりそこで素直、

運命に従順ということが

一番よいのです。

これは決して間違いないことです。

間違いなければうまくゆくのです。

ところが、どうも人間というのは

「精神一倒何事か成るざらん」主義で、

なかなか素直にゆかないのです。

私はいつかも言ったことがあるが、

人間は腹に力を入れなければいけないと

言いますが、

腹に力を入れてはいけないのです。

武芸者でも、腹に力を入れているのは、

まだ、本当ではないのです。

それが腹に力を入れてないと、

千変万化の働きができるのです。

機に応じ、

身に応じての働き

ができるのです。

 

だからああしようと思ったら、

必ずうまくゆかないです。

寒ければ暖かい物を着るし、

暖かければ涼しい物に着替える

という主義が一番よいのです。

私なども昔は

 

 

「精神一到何事か成らざらん」主義を

随分やりましたが、

やっぱりいけないのです。

神様のことを知らないうちは

そうやっていたが、

分ってみると、

人間なんてものは

実に頼りないものです。

ブヨみたいなものです。

大風が吹けば

潰れてしまうようなものです。

ただ

神様に掴まっていれば大丈夫

です。

掴まっていなければ実に危ないものです。

 

 

だから今は「オレが」という連中が汚職問題で

ドシドシブチ込まれてますが、

自分では確信を持って素晴らしいものだと

いうわけなのですが・・・。

それについては、ただフワフワしていては、

それは駄目です。

そこにおいて智慧というものが要るのです。

智慧というのが肝腎なのです。

だから智慧証覚というものを磨かなければ

ならないのです。

それにはやっぱり頭ですから、

頭に曇りがあっては駄目です。

今の人は頭に曇りがあるから、

貧血しているから、

智慧の働きが悪いのです。

本当に分かってみれば、

信仰のない人間というのは

しようがないのです。

だからこの間も「汚職の母体」という論文を

書きましたが、

これは「栄光」に続けて

三度出しますが、

徹底的にやろうと思っているのです。

日本の政界というものは、

どうしても

大浄化作用がなくてはしようがない

です。

       (昭和29年3月1日)

 

 

アシタノワダイ

 

 

 

 

 

◆大掃除の順番
 

宗教→政治→経済→教育

思想が良くならないと政治も良くならない
政治が良くならないと経済も良くならない

日本が良くならないと世界も良くならない



思想が良くなると政治も良くなる

政治が良くなると経済も良くなる

日本が良くなると世界も良くなる

 

 

◆生神様

『救世』62号、昭和25(1950)年5月13日発行

よく私に初めて面会した人が異口同音に言う事は、
実は御目にかかるまではとても近づき難いお方で、
お付きが傍についており最敬礼でもしなければ
ならないと恐るおそる伺ったのであるが、
意外にもすべてが余りに簡略率直で

唖然としてしまった
というのである。


なるほど世間一宗の教祖とか管長とかいう人は、
右のような大袈裟な雰囲気の中にいる事は、
一般の通念になっている。


このような訳で、
以前よくそういうやり方を

希望した部下もあったが、
私としては

どうもそういう気にはなれないので
今もって相変らずの

普通人的のやり方である。


しからば、私のこの生神様的でないのは
どういう訳かと

知りたい人も沢山あるであろうから、
ありのままの心境をかいてみよう。
元来私の生まれが

江戸ッ子であるためもあろうが、
私は若い頃からどうも気取る事を好まない、
というのは、

いつも言う通り

私は偽りを非常に嫌う結果、
装ったり、道具立てをしたりする事は

一種の偽りであり、
衒(てら)いでもあると思うと共に
他からみても一種の嫌味である。
結局有るがままが一番好いという事になる。
 まず今日の私の境遇からいえば、
生神然と神殿の奥深く納まっており、
人に面会を許す場合いとも勿体らしくする方が
値打があって良いかもしれないが、

どうも私は嫌である。
そんな訳で私が常に思っている主義としては
私の態度やり方が

気に入らない人はおよしなさい
気に入った人はお出でなさい

と言うだけである。

 


しかし日に月に発展して行く実情をみては
気に入る人の方が多いに違いないと

満足している次第である。

~省略~

 

 

◆常識 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

抑々、真の信仰とは言語行動が

常識に外れない事を

主眼としなければならない
世間よくある神憑式や、奇怪な言説、

奇矯なる行動等を標榜する信仰は
先づ警戒を要すべきである。
処が多くの人はそういう信仰を反って

有難く思う傾向があるが、
之等は霊的知識の無い為で無理もないが、

心すべきである。
又自己の団体以外の人々と

親しめないというような

独善的信仰も不可である。
真の信仰とは

世界人類を救うのが

宗教の使命信じ
自己の集団のみにこだわらず、

排他的行動をとらないようにする

のが本当である。


 

 

 

丁度一国の利益のみを考へ

他国の利益を無視する結果、
惨澹たる敗戦の苦杯を嘗める事になった

終戦前の日本を鑑(かんが)みれば

判るであろう。
私は信仰の究極の目的は、

完全なる人間を作る事であるとも思う。
勿論世の中に完全という事は

望み得べくもないが、
少くとも完全に一歩々々近づかんとする修養−−

之が正しい信仰的態度である。


故に信仰に徹すれば徹する程

平々凡々たる普通人の如くに

見えなくてはならない。
そうなるのは信仰を咀嚼し、

消化してしまったからである。


その人の言動が如何にも常識的であり、

万人に好感を与え、
何を信仰してゐるか判らない位に

ならなければ本当ではない。
人に接するや

軟かき春風に吹かれる如くで、

 

 

謙譲に富み親切であり、
他人の幸福と社会福祉の増進を

冀(こいねが)うようでなくてはならない。
私は常に言う事であるが、
先づ自己が幸福者たらんとするには

他人を幸福にする事で、
それによって与えらるる神の賜が

真の幸福である。
然るに自己のみの幸福を欲し

他人を犠牲にするというが如きは
全く逆効果以外の何物でもない事を

知るべきである。

 

 

◆自由なる信仰

~省略~
それは他の宗教に触るるのを恐れる理由は、
その宗教より以上の宗教があるかも

知れないとの懸念の為であろう。
というのは、

その宗教に弱点があるからで、
大いに注意すべきである。
そうして自画自賛で言い辛いが、
我が救世教に限って

その点実に自由である。

 

 


これは信者はよく知っているが、
他のどんな宗教にでも大いに触れるべしと
言っている。
勿論研究も結構で、

それだけで見聞が拡まるからである。
その結果

もし

救世教以上のものがあったとしたら、
いつ転向しても差し支えない。

決して罪とはならないからで、
本当の神様なら

その人が救われ、
幸福になりさえすれば
それでいいのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

この世の大峠(艱難時代)に入る

その前に

自分好みの神様(信仰)を見つけて、

しっかりと掴まることを

勧めずにはおられません!!

 

 

 

救世教(メシヤ教)になって

立て別けが厳しくなる。

 

神は次第に厳しくなる。

 

その時期が近づいてきていること

 

ボヤボヤしたり、フラフラする人は

神様にやられる。

 

信仰の固まっている人は、

どんな強い浄化でも逃れられる。
 

理屈に合わないと再浄化が起こる。

 

救われる人と救われない人を分けられる。

 

仏の働きから神のお働きへ

 

試されて救うべき人か分けられる。

 

救われる人の方が少ない。

 

救われる人は手数がかからない。

 

分からない人は追わない方がよい

 

分からない人は諦めること

 

 

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救われる」を

味わうか

味わわないかは

あなた次第です!!

 

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このメッセージがわかる人に伝わればと

 

 

 

 

刻一刻と迫っている

文明の転換期の中にあって

有神思想を勧めずに

おられません!!

 

 

天国の福音真理

普く宣べ伝えるべし

しかる後

三千年分の

諸々の枉事罪穢を 

祓ひ給へ浄め賜へ

を越えて

ピッカピカ

明朗清純な大光明世界至る

 

 

 

 

 

日月神示
「日本眞中(まなか)ボタン一つで世界が動くぞ」



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愛のために 奥田民生