地上天国(ミロクの世)の住民への道も一歩から

 

 

 

 

北野武×麻原彰晃 対談映像

「たけしの死生観、麻原の仏教観」

 

 

 

 

 

そんなお声に応えたのが

罪なきからあげ

 

 

 

 

1991年12月30日放送

物質的に豊かになった時代

いわゆるバブル時代末期?

 

 

収入がいくら増えても、

物がいくらあっても

幸福感は得られなかった

ということでしょうか?

 

 

 

思想に偏った時代の次に

人々が求めたものが思想

 

 

 

宗教ブームということでしょうか。

 

 

あれから29年。

 

今現在の

 

北野武さんの死生観と

ワギュウマフィア観について

聞いてみたいです。

 

 

 

 

amazarashi 『空っぽの空に潰される』

 

 

 

 

 

 

 

オウム真理教の幹部の中には、

高学歴の人達が何人もいて、

そういうような人達が何で入っているんだろう

ということも当時いろいろ分析もされました。

 

その中で僕が聴いていてなるほどな

と思った部分は、

 

 

人間誰しも悩みがあるわけですよね、

 

 

不安もあると、

それで悩みっていうのが

人間存在のところに関わる人も

いっぱいいるんですよ。

 

 

現世的な悩みだけじゃなくてね、

そういうふうな悩みを抱えてる時に、

自分では答えはでないんですね、

たぶん生きている間

考え続けながら

生きていくしかない

んだろうと思うですけど、

 

 

ある種、宗教からですね、

答えはこうだよ!

 

 

 

 

 

 

と言われると、

それを信じ込んでしまったらなんですよ。

 

 

もうそっから自分が悩んで

考える必要がなくなるわけですから。

つまり、

悩みってことの辛さはなくなるんですよ。

それがいろんな宗教で共通して言えることだと

思うんですけど、

それを一回信じてしまったら、

そっからはなんですよ。

悩まないから

 

だから、一回そこに入っちゃったら、

知的レベルが高かろうが、何んだろうが、

それで楽にやっていけると。

で、問題はその後、

その宗教が反社会的行動まで

やらせることなのか

どうかだけが問題になってくるんですよね。

 

仲正先生にお聞きしたいんですけども、

結局、自分が信じたものっていうのは、

今はどういう風に思ってらっしゃるんですか。

 

 

そうですね、

今考えてみると、

ぜんぜん解決にはなってなかったと思いますし、

いろんな人の人生を不幸にしているっていうのは、

間違いないですし、

かなりおかしな教義だったっていうのは

教会にいたときから、

 

 

 

 

 

こんなことやってたら、

この教会駄目になる

と思ってたことは当然あります。

 

 

それから、

先ほど玉川さんがおっしゃってこと、

答えを与えられて楽になるというか、

何をやったらいいかを教えてくれる

っていうのが、ポイントなんだと思うんですよ。

 

 

 

つまり、問題はここにありますよ

って言われても、たぶん、

普通の人間は自分で変わることができないですし、

将来、ああいうことをやりたい、

こういうことをやりたい、

自分のこういう才能を伸ばしたい、

で、夢みたいなものをもともと

たくさん持っている人だったら、

それを犠牲にしてこの宗教の道を行くのか

ていうふうに、

そこで葛藤がむちゃくちゃ大きいと思うですけれど、

私みたいに、そもそも自分に何ができるのか、

 

 

自分みたいな性格の人間に、

普通に世の中で生きていくことができるのかと、

まあ、そういうことをしょっちゅう高校時代も、

それから東大に入学したときに、

保健のカウンセリングの先生に、

「ちょっとそういうリアクションで大丈夫なのか?」

とか聞かれたりしてましたから、

自分でちょっと社会不適合だなと思ってたので、

そういう人間が何ができるのかと、

ずっと思ってたわけですね、

 

 

で、統一教会は

こういう問題が人類共通にあると、

これをやったら一挙に解決するとは

言わないんですよね、

 

で、試練は沢山あると、

しかしその試練というのは、

こういう意味があるんですよと、

 

ようするに、

不安とか苦痛とかなくなんないですけど、

むしろ強くなったりするんですけど、

それは神があなたに

試練を与えてるんです。

 

で、今あなたはこういうふうに

感じてるでしょ?

 

 

それは次のステップに行って欲しいと

神が願ってるからです。

っていうふうに教えられるんですけど、

教える時に、

相談相手になってくれる教会の上の人次第だと

思うんですね。

 

話をよく聞いてくれるし、

私がどういう心理状態であるのかって

結構わかってるんですよ。

で、

自分もそういう状態を通過した

っていうふうに言われると、

あっなるほどっていうふうに、

思うところもあるんです。

 

自分は懐疑的だったので、

完全には納得していない面もあったんですけど、

外の世界にはそんなに希望があるように

思ってなかったので、

とにかく何をやったらわかんないけど、

とにかく、

じゃその教会で言われていることを

やってみようと、

そしたら

何か開けてくるのかもしれないと、

ずっと思ってたわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

世界救世教

 

本人が信仰に入って、

御神書を読んで立派な信仰だ。

是非お祀りさせて下さい。

というのならよいが、

本当に分からないうちに

押しつけるようにして

祀らせたのでは、

神様に対して御無礼になる。

有り難い、

是非自分もそういう神様を拝みたい

という切なる気持ちでお祀りしてこそ、

はじめて神様はーーー人間と同じですよ。

ーーー気持ちが良いです。

 

 

 

大乗道

 

に偏すればが生れ、

に偏すればが生れ、
いずれにも一方に偏する事なく

軌道を進む

 

 

◆メシヤ思想(伊都能売思想)

 

唯心唯物両方の思想が調和

したものです。

 

 

これがコントロールされた思想です。

それがだんだん勃興していくのです。

そうして

その思想指導者救世教なのです。

 

 

つまり早く言えばメシヤ思想です。

というのはいつも言っている通り、

伊都能売(いづのめ)です。

伊都能売思想です。

つまり

右によらず、

左によらず、

の字です。

経緯(たてよこ)結んだ、

そういう思想が生まれるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

北野武×麻原彰晃 対談映像

「たけしの死生観、麻原の仏教観」

 

この対談を聞いて感じたのは、

人生の教えとしての

最高の指針」を考えるときに

やっぱり、

自殺はいけないという理由がほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界救世教


死後の種々相

自観叢書第3編『霊界叢談』P.15、

昭和24(1949)年8月25日発行

死にも種々あるが、脳溢血や卒中、

心臓麻痺、変死等のため、
突如として霊界人となる場合があるが、
何も知らない世人は病気の苦痛を

知らないからむしろ倖せであるなどというが、
これらは非常な誤りで

実はこの上ない不幸である。
それは死の覚悟がないため霊界に往っても
自分は死んだとは思わず

相変らず生きていると想っている。
しかるに自分の肉体がないので、

遮二無二肉体を求める。
その場合自己に繋っている霊線を

たどるのである。
霊線は死後といえども血族の繋りがあるから、
霊はそれを伝わり人間に憑依しようとするが、
憑依せんとする場合衰弱者、産後貧血せる婦人、
特に小児には憑依しやすいので多くは小児に憑依する。
これが真症小児麻痺の原因であり、

また癲癇(てんかん)の原因ともなるので、
小児麻痺は脳溢血のごとき

症状が多いのはそのためであり、
癲癇は死の刹那の症状が表われるのである。

例えば泡を吹くのは水死の霊であり、

火を見て発作する火癲癇は火傷死であり、
その他変死の状態そのままを

表わすもので夢遊病者もそうであり、
精神病の原因となる事もある。
次に変死について知りおくべき事がある。
それは他殺自殺等すべて変死者の霊は

地縛(じばく)の霊と称し、
その死所から暫くの間離脱する事が

出来ないのである。
普通数間または数十間以内の圏内にいるが、

淋しさの余り友を呼びたがる。
世間よく鉄道線路などで轢死者が出来た場所、

河川に投身者のあったその岸辺、
縊死者のあった木の枝等よく後を引くが

右の理によるのである。


地縛の霊は普通三十年間

その場所から離れない事になっているが、
遺族の供養次第によっては

大いに短縮する事が出来得るから、
変死者の霊には特に懇(ねんご)ろなる

供養を施すべきである。
そうしてすべての死者特に

自殺者のごときは霊界に往っても
死の刹那の苦悩が持続するため

大いに後悔するのである。
何となれば霊界は現界の延長

あるからである。

 

 


この理によって死に際し、
いかなる立派な善人であっても

苦痛が伴う場合中有界または

地獄に往くのである。
また生前孤独の人は霊界に往っても

孤独であり、不遇の人はやはり不遇である。
ただ特に反対の場合もある。
それはいかなる事かというと、

人を苦しめたり、吝嗇(りんしょく)であったり、
道に外れた事をして富豪となった人が

霊界に往くや、

その罪によって反対の結果になる。
すなわち非常な貧困者となるので

大いに後悔するのである。

これに反し現界にいる時、
社会のため人のために財を費やし

善徳を積んだ人

霊界に往くや分限者となり、
幸福者となるのである。

 

 

 

またこういう事もある。

 


現界において表面はいかに立派な人でも、
霊界に行って数ケ月ないし一ケ年位経るうちに

その人の想念通りの面貌となるのである。
なぜなれば霊界は想念の世界で

肉体という遮蔽物(しゃへいぶつ)がないから、
醜悪なる想念は醜悪なる面貌となり、
善徳ある人はその通りの面貌となるので

これによってみても
現界と異なっている事が知らるるのである。
全く霊界は偏頗(へんぱ)がなく

公平であるかが知られるのである。

以前こういう例があった。
その当時私の部下に山田某という青年があった。
ある日彼は私に向かって
「急に大阪へ行かなければならない事が

出来たから暇をくれ」というのである。
見ると彼の顔色挙動等普通ではない。
私はその理由を質(たず)ねたが、

その言語は曖昧不透明である。
私は霊的に査(しら)べてみようと思った。
その当時私は霊の研究に興味をもち

それに没頭していたからである。
まず彼を端座瞑目させて霊査法にかかるや、
彼は非常に苦悶の形相を表わしノタ打つのである。
私の訊問に応じて霊の答は次のごときものである。
「自分は山田の友人の某という者で、

大阪の某会社に勤務中、
その社の専務が良からぬ者の甘言を信じ

自分をクビにしたので、
無念遣る方なく悲観の結果

服毒自殺したのである。
しかるに自分は自殺すれば

無に帰すると想っていたところ、
無になるどころか

死の刹那の苦悩が

いつまでも持続しているので
あまりの予想外に後悔する
と共に、

これも専務の奴がもとであるから、
復讐すべく山田をして殺害させようと思い、
自分が憑依して大阪へ連れて行こう

としたのである」
この言葉も苦悶の中から途切れ途切れに語った。
なお彼は苦悩を除去してもらいたいと懇願するので、
私はその不心得を悟し苦悩の払拭法を行うや、
霊は非常に楽になったと喜び厚く謝し、
兇行を思い止る事を誓い去ったのである。
右憑霊中山田は無我であったから、
自己の喋舌(しゃべ)った事は

全然知らなかった。
覚醒後私が霊の語ったままを話すと

驚くと共に、危険の一歩手前で

救われた事を喜んだのであった。


これによってみても

人間はいかなる苦悩にあうも、
自殺は決して為すべからざるもの

である事を識るべきである
特に世人の意外とするところは情死である。
死んで天国へ行き蓮の台に乗り、

たのしく暮そうなどと思うが

これは大違いである。
それを詳しくかいてみよう。
抱き合心中などは霊界へ往くや、

霊と霊とが密着して離れないから

不便この上なく、しかも他の霊に対し

醜態を晒すので後悔する事

夥(おびただ)しいのである。
また普通の情死者は

その際の想念と行動によって

背と背が密着したり、
腹と背が密着したりして

すべての自由を欠き、

不便極まりないのである。
また生前最も醜悪なる男女関係、

世にいう逆様事などした霊は逆さに密着し
一方が立てば一方は逆さとなるというように

不便と苦痛は想像も出来ない程である。
その他人の師表(しひょう)に立つべき僧侶、

神官、教育者等の男女の不純関係のごときは、
普通人より刑罰の重い事はもちろんである。

(注)師表(しひょう)、人の手本となる事、人。

 

 

 


自殺者の無責任

『光』45号、昭和25(1950)年1月14日発行

いつの時代でも自殺者が絶えない事は

誰も知るところであるが
特に近来は多いようである、
とすれば文化の進歩は

自殺とは関係がない事を知るのである.
自殺にもその動機が日本と外国とは

余程異(ちが)うように思う.
まず吾らの観るところでは、
外国人の自殺者は多く

精神的苦悩が原因のようだが

日本のそれは別のようである.
というのは、

昔の封建時代はお詫びの印とか、

殿様に対し一身を犠牲にして
諌言(かんげん)のためとか、
身の潔白を示すためとかいう

崇高なる精神的動機が多かったので、
自殺者へ対し一種の尊敬さえ払われたのである。
彼の乃木大将のごとき自殺の結果
神に祀られたというのにみても

推して知るべきである。
ところが近来は右のような動機は

ほとんどないといってもいい。
つい最近自殺した学生高利貸

山崎某なる者のごときは、
一時は成功してヤンやと言われたのも

束(つか)の間で、
遂に二進(にっち)も三進(さっち)も

ゆかなくなり、
苦境を逃れんがためと

謝罪の意味もあろうが、

自殺の止むなきに至ったのであろう。
しかしながらよく考えてみると、

実は無責任極まると言うべきである。
人にサンザ迷惑をかけておきながら

いささかの償いもせず、
あの世へ逃避するのであるから

はなはだ怪しからん行為といってもいい。
本当から言えば

身命を賭しても出来るだけ生き長らえて
迷惑の幾分なりとも償うべきである

にかかわらず

そうしないのは

むしろ卑怯者と言ってもよかろう。


また近来話題に上る文士の自殺のごときも

無責任の譏(そし)りは免れ得まい。

 


自己の不道徳による苦悩の清算からでもあろうが

死によって遺族や関係者にいかに

不幸や迷惑を与えるかである。
そうして特に言いたい事は

この種の自殺者に対し、

社会の一部には讃美する者さえみらるるのであるが、
この輩はむしろ一種の罪悪を作るといってもいい。

 


その証拠には最近自殺した田中英光氏のごときは、
太宰氏の墓前において自殺したにみても

太宰氏の行為に憧れを持ったからであろう。
それのみではない、

太宰氏が玉川上流に投身した同じ場所で
その後数十人に上る追随者が出たのであるから

飽きれざるを得ないのである。
今もってかの数十年前華厳の滝へ飛込んだ

藤村操の跡を追うものが、
絶えないという事等も

右をよく物語っているのである。

 

次に、近来の自殺の原因に

相当多いとされている

ヒロポンやアドルムのごとき

麻薬中毒であるが、
これらに対しても大いに反省の要がある。


麻薬中毒の最初はただ一服であって、

それが将来の生命とりになる事を

徹底的に知らしむべきである。
最近当局においてもそれに気が付き

禁止の手段に出たがむしろ遅しというべきである。
 

以上自殺行為は無責任極まるものであり、

卑怯者であるという事を強調し、
いささかの讃辞など与えないよう

特にジャーナリスト諸君に警告したいのである。
本来宗教的からいえば

死人に鞭打つ事は宜しくない事ではあるが、
今後出るであろう

自殺者を未然に防ぐ意味から、
あえて自殺の不可を注意したのであるから、
死者の霊もまた満足すると思うからである。

 

 

 

 

◆奇蹟によって霊の実在を知らせ、

 文化革命を促す

そういうようで、

救世教がやることは宗教ではないのです。
一口に言えば世界の文化革命です。
それをやるについては

宗教的にやるのが一番よいのです。
一番やりよいのと、結果が良いのです。
というのは霊があるということを知らせるのは、
それは宗教的にもってゆくより

ほかにしようがないのです。

 


ですから宗教は、

一つの宗教的形式といいますか、
それを利用するわけです。
だから救世教の中心は宗教的で、
 

 

それを分からせるというのに

浄霊で病気を治すという奇蹟です。
これが霊の実在を知らせるのに一番良いのです。
というのはこれよりほかにしようがないのです。
それで病気が治るということが

今の人の頭でいったら奇蹟ですから、
それで今度は「救世教奇蹟集」というのを、

今編集してますが、

これは霊の実在を教える手段なのです。
そういうようで、

だんだんそういうことを知るについて、
文化革命になるわけです。
そのうちでも根本は医学ですから、
医学革命というこれが一番大きな問題です。
 

 

 

 


 

 

 

正しいものがなんなのか?

 

それがこの胸わかるまで~

 

 

 

 

尾崎豊 僕が僕であるために