地上天国(ミロクの世)の住民への道も一歩から

 

 

 

 

 

世界救世教

 

御 詠
全人類 神ある事を信ぜずば 

やがて平和は夢となりなん

 

◆生きてる宗教

宗教にも生きてる宗教と

死んでる宗教とがあるといったら

変に思うであろうが、

それをこれから書いてみよう。

 

生きてる宗教とは、

即ち実際生活に即したもの

を言うのであって、

死んでる宗教とはその反対である。

 

処が世間数ある宗教の中で

実際生活にピッタリしているものは

絶無とは言わないまでも、

洵に寥々たる有様である。

 

 

 

成程教えはどれもこれも

実に立派に出来てはいるが、

教化力の点に至っては

気の毒乍ら期待をかけられまい。

 

併し何百何千年前の教祖開教当時は、

その時の社会情勢に合い、

教化の力も大いにあったには違いないが、

その後星遷り年変り、

時の流れにつれて教勢は漸次衰え、

現在の如き状態となったのは

周知の通りである。

 

これも自然の成り行きであって

致し方はないが、

この事は独り宗教のみではない。

凡ゆるものがそうであって、

只宗教だけは遅れて最後になった訳である。

 

併しその間と雖も

時代に即したいろいろな新しい宗教が生まれたのは

何処の国でも同じであるが、

さらばといって、

それまでの宗教を圧倒する程の力あるものは

滅多に出ないので、

いつか姿を消してしまうのが常である。

 

その中でとも角近代に生まれ、

今尚相当勢力を保っているものとしては、

彼の日蓮宗と天理教位であろう。

 

【法華経と日蓮大聖人】-日本語

 

以上は大体の宗教の推移であるが、

それはそれとして、

今言わんとする処のものは、

現代としての宗教の在り方である。

 

 

知らるる如く十八世紀以降科学文化の発展は、

宗教にとっての一大脅威となり、

それがため今日のごとき衰退状態となったのは

争えない事実である。

 

そのようなわけで、

科学は恣に人心を掌握してしまい、

今日科学の文字が入らなければ、

人は承知しないようになってしまったのである。

 

 

 

それだけならまだいいが、

これが原因となって無神思想を生み、

道義の頽廃止まる処を知らざる有様で、

国家社会は混迷状態となり、

現在の如き宛ら生地獄そのままの世界となったのである。

 

然も古い宗教にあっては、

今尚何百何千年前の教祖の教えを建前として、

長い間に練り上げた教えを以て

教化に努めているが、

何しろ時代から余りに離れすぎたため

教化の力とてなく、正直にいって

現実性を失った骨董的存在でしかないことに

なってしまった。

 

成程その当時は香り高い美術品として

大いに用いられたには違いないが、

今日となっては

重要文化財としての価値だけであろう。

処が新宗教の中には

右の重要文化財を恭しく飾り立て

人寄せに利用はしているが

これとても或る時期までの生命でしかあるまい。

何といっても素晴しい文化の進歩に追越され、

宗教は遙か遠くへ置去りにされた形である。

 

これを例えれば飛行機や自動車、

無線科学時代の今日、

マサカ牛車や駕篭を持ち出した処で

何の役にも立たないのと同様であろう。

ここでいつも乍らの

自画自讃を言わざるを得ないが、

 

 

本教は知らるる如く

歴史は歴史として尊重はするが、

それにこだわる事なく、

神命のまま独自の方針をもって進んでいる。

然も新生宗教としての若々しさは

青年の血が通っており、

 

 

 

今行っている事業にしても、

医学や農業の革命は固より、

凡ゆる文化の欠陥を指摘し

新文化の理念を指導精神としている。

その具体化の一つが

地上天国の模型や美術館の建設であって、

これこそ第一線的のものであり、

勿論この狙いは

汚され疲れた魂の憩いの聖地であると共に、

俗悪極まる今日の娯楽に対する一塊の明礬として、

人間の品性を高める事でもある。

 

以上の如き本教の経綸は、

個人的には

健康、救貧、思想の健全化等に

資するは勿論、

大にしては

明朗不安なき社会を作らんとする

のである。

この事は近来識者間にも漸く認められ、

注目の的になりつつあるのは

喜ばしい限りである。

しかし今は小規模であるが、

何れは世界的に拡充された暁、

日本から

平和幸福な理想世界の構想

が生まれるわけで、

これは敢えて夢ではない事を明言する。

これ等によってみても、

本教こそ真に生きた宗教の在り方でなくて何であろう。

只併し遺憾に思う事は、

現在新宗教を目する社会の眼は、

残念乍ら甚だ冷淡軽侮的なものがあり、

特にインテリ層程そうであって、

本教に触るる場合と雖も

世間を憚る如き心遣いをする傾向のあるのは

遺憾に堪えないのである。

併しこれも無理はない。

 

何しろ古い宗教にしても、

信者の数だけは夥しいが、教養が低く、

所謂愚夫愚婦級の人が大部分であり、

新宗教にしても顔をそむけるような

奇矯極まる言動のものや、

迷信的分子が多分に含まれ、

常識眼で見てさえ苦々しく思うようなものも相当あるからで、

これ等も或る時期までとは思うが、

当事者には考慮を促したいのである。

 

又右とは反対に古い聖者、賢人、教祖等の説を焼直し、

新しい衣を着せて時代に迎合するような宗教学者もあって、

外面からは進歩的に見え、

インテリ層には受けそうには思われるが、

果して実際生活にどれだけ役立つかは疑問であろう。

これに就いて思い出されるのは、

彼の有名な米国の哲学者ウィリアム・ジェームズの

プラグマチズムである。

訳して哲学行為主義であるが、

これを私は

宗教行為主義

替えたいと思うのである。

    (昭和二十八年十一月四日)

 

 

◆プラグマチズム

 

~省略~

理想的にいえば、

些(いささ)かの宗教臭さもなく

普通人と少しも変わらない

只その現行が実に立派で親切で、

人に好感を与える

というようでなければならない。

~省略~

 


◆宗教プラグマチズム

『栄光』106号、昭和26(1951)年5月30日発行

アメリカの有名な哲学者バースが、
最初唱え出したプラグマチズムは、
ウィリアム・ジェームスに至って

世界的哲学思想となったので、
今日はジェームスが本家のようになってしまった

という事である。


このプラグマチズムの言葉を訳すと、
実利主義とか、実行主義とかいうのだそうだが、
私は「行為主義」と言った方が、

どうもピッタリするように思う。
これは哲学に関心を持つ程の人は、
誰もが知っているから多くをいう必要はないが、
今私が言いたいのは、宗教プラグマチズムである、
これは以前も一度かいた事があるが、
今一度徹底したいと思うので、再びかくのである。
単に、宗教行為主義というと、
既成宗教のいずれもは実行しているように見えるが、
なるほど文書による宣伝や、言葉の説教、祷(いの)り、
宗教的行事、禁欲、難行苦行といったような事は、
誰も知っているが

肝腎な実生活にまで及んでいないのが遺憾である。
だから忌憚なく言えば、
実生活と離れた一種の精神的修養でしかないと言えよう。
ところが哲学プラグマチズムは、

実生活に哲学を採り入れ、
役立つものにしようとするもの

この点実にアメリカ式である。
それと同様私は宗教を実生活に取入れるというよりも、
宗教と実生活と密接不離な関係にまで、
溶け込ませようとするのである、

だから今までの既成信仰者のように、
独善的、孤立的、観念的ではなく、
超世間的な点を最も嫌い、

飽くまで一般人と同様であるのはもちろん、
極力信仰の臭味を無くするようにし、

万事常識的で、
信仰があるのかないのか

人の目には映らないくらいにするところまで、
信仰が身に着いてしまわなければならないと思う、

つまり応身の働きである。
宗教行為主義とは、

以上によってほぼ納得されたであろう。

 

 

 

 

日月神示

 

汽車あれば汽車に乗れよ。
飛行機あれば飛行機に乗れよ。
歩いたり、馬で行くのでは

間に合わんことになっているぞ。
昔のままの宗教のやり方ではならん。
根本はよくても中々に目的地には着かん。
飛行機時代には飛行機に乗れよ。
乗って進む宗教の道によらねばならん。
今は今の姿が真実ぞ。
そなたの頭で割り切れんと申して

ブツブツ申すでないぞ。
あるものそのものが真実であるぞ。
そのあるものを拝み、祝福して

そこから出発せよ。
現在を祝福することは

過去を、未来を、すべてを祝福することぞ。
たとえ如何なる現在も、

その現在を祝福せねばならん。
喜びせねばならん。
喜びもとと申してあろうがな。
この巻くろかね(黒鉄)の巻。

 

 

 

 

 

天国の福音を普く宣べ伝えるべし、

しかる後 末期到る

 

 

 

 

 

 

 

これは都市伝説です。

エンターテイメントとしてお楽しみください。

 

 

 

 

 

 

日月神示
「日本眞中(まなか)ボタン一つで世界が動くぞ」




↓クリック

 

 

 

 

 

 

【高校生のための倫理】プラグマティズム(西洋思想)