わたしたちは、10年前まで通っていた高校に向かうなだらかな坂道を歩いている。胸の鼓動は、10年前のあの日と同じく痛いくらい鳴っている。
はじめて彼と手をつないだあの夜と同じように。
10年前の彼は春夏連覇の偉業を達成した甲子園のスター、我が母校のエースだった。わたしは、その野球部のマネージャーで彼の彼女。
空を見上げると、満月前夜の月が申し訳なさそうに鎮座している。
「オーケー、オーケー!ドンマイ、ドンマイ!」
炎天下のグランド、泥だらけのユニフォーム、真っ白なボールと真っ黒な日焼け。高校生活のすべてだった野球部と甲子園。わたしたちの夏は、どこまでも続くんだと無邪気に思い。疑うこともなかった。永遠に永遠に続くんだ。
そして高校3年生へと進級した。生まれてから18回目の夏。春に続いて、夏の甲子園にも出場した。
彼が投げた夏の大会は、予選からピンチらしいピンチもない、あっけない優勝だった。超高校級などと騒がれた彼の投げる球は、150キロを超えていた。グラウンドに叩きつけらるように投げられた玉は、重力に逆らって打者の手前でホップする。対戦相手の高校生に打てるはずもなく、バットに当たることさえ稀だった。
彼を筆頭に野球部の部員たちは胸にメダルを掲げて地元に帰ってきた。九州ののどかな田舎町で、彼らは英雄のように迎えられた。役場への優勝報告に始まり、ローカルテレビや新聞の取材など、毎日がお祭り騒ぎで、締めは、優勝パレードだった。まばゆいばかりの熱い夏。
地元の商店街を華々しくパレードした翌日、わたしたちはクラブを引退した。引退をさかいに、部員たちは、それぞれの進路に向かって歩み始めることになる。日本一を成し遂げたわたしたちには、こわいものなんてなかった。優勝という2文字は、何事にも代えがたい自信をわたしたちに与えてくれたのだ。人生を制したような気分になっていたと思う。もちろん、わたしもそのうちのひとりだった。
終わらないはずの夏が終わったことに気づいてなかった18歳だった。
「よく俺の携帯の番号分かったね。」
「わたし、私立探偵やってるの、いま。」
「へぇ、そうなんだ。」
「うそよ。」
「知ってるよ。このあいだ、実家のお袋が教えたって言ってた。」
「どう思った?」
「ドキッとした。」
「それだけ?」
「うーん、その後、しばらくドキドキしたな。」
相変わらずで、ほっとする。
高校卒業後の彼は、在京球団にドラフト1位指名され、華々しく入団した。
わたしは、地元から通える短大に進学した。
キャンプが始まると、テレビに新聞にと彼を見ない日はなかった。そして、当たり前のことだけど、プロ野球選手となり寮生活を送る彼と会えなくなった。それまで毎日のように会っていた彼に会えないことは、想像以上につらいことだった。携帯電話をみんなが持つような時代じゃなかったので、もっぱら手紙を書いたのを覚えている。来る日も来る日も短大での授業中に手紙を書き、送った。
書いた内容なんて覚えていない。ただ、短大と自宅を往復するだけのわたしの日常には、刺激的な非日常や劇的な事件なんてそうそうなかった。漫然と過ぎていく毎日を傍観者のように眺めるような内容を延々と書き続けていた。
18、19の小娘は浅はかだ。
九州の南に残ったわたしは、彼との距離にもがき始めた。彼をわたしから奪った野球を恨めしくさえ思うようにさえなった。来る日も来る日もあの夏の光景が切り取られている写真の束を眺めては泣いた。
わたしは、あの夏にしがみついていた。あの夏と、わたしの知る彼はワンセットだった。
オープン戦が始まった。バスと電車を乗り継いで1時間ほどの地元の小さな球場で彼のプロ初登板が球団の監督からアナウンスされた。そのことを報道で知った町の人々は大騒ぎだった。横断幕をつくり、商店街では便乗セール、バス会社は応援ツアーを組んだ。まるでお祭りのようだった。だけど、あの夏のものとは違った。なんだか、安っぽい再現ビデオを見ているみたいだ。交通安全教室で見るアレのよう…まるで紙芝居。
試合の前日、彼の泊まるホテルにこっそり行ってみた。半年前に撮った写真を渡すため。制服姿の二人が写っていた。わたしがバッターボックス、彼がマウンドにいるやつ。夏の甲子園を終えて1週間後に写った写真。
「当たると死ぬよ。」
「そんなヘボしないでしょ。」
「いや、なんか怖い。好きな女の子に向かってなんて怖くて投げれない。」
そう言って彼は振りかぶり、投げるふりだけした。
見えないボールに向かって、わたしは、思いっきりバットを振った。
後輩マネージャーが撮影してくれた写真には、夏々しい笑顔で向き合ったわたしたちがいた。
ホテルには行ったけど、結局、彼に会うのはやめた。会わないかわりに、写真に手紙を添えて、ホテルのスタッフに渡した。手紙に何を書いたか、よく覚えていない。ただ、さようならを伝えたものだった。
翌日、わたしは野球部のOBたちと一緒にオープン戦を観戦した。チケットは彼が手配してくれた。彼が準備してくれた席は、バックネット裏…つまり、投げる彼を正面から見ることが出来る特等席だ。彼に渡した手紙のことを知らない同級生たちは、その中でも最高の位置である真ん中にわたしを座らせた。
1回表。彼のチームは後攻、つまり、いきなり彼の登場だ。
大歓声の中、彼はマウンドに立った。ベテランのキャッチャーと一言二言交わす。グラブを口に当てたまま軽く頷いた彼は、1球、2球と、投球練習を始める。
彼は、しきりにグラブで帽子の上から頭をポンポンと叩いた。それは彼がマウンド上で考え事をするとき…それもマイナス思考のときの癖だ。その動作を1球ごとに繰り返す。その挙動を見てわたしは、昨日のホテルマンが手紙を渡してくれたことを確信した。また彼は、わたしたちがここにいることを分かっているはずなのに、決して見ようとしなかった。
わたしは、悲しみや罪悪感と共に同居する優越感のようなものを感じていた。あの夏からとっとと出て行った彼を引きずり戻してやる。そしてそこに施錠してやる。寂しかったんだから。ガチャリ。
「プレイ!」
審判の地鳴りのような声と球場に轟くサイレン。彼は、わたしたちに背を向け、大きく伸びをした。そして、振り向きざまに白球を握った右手を満面の笑みとともにやさしく突き出した。右手の先は、わたしだった。
「フラれたら、そのときはブン投げるよ。」
写真を撮ったあの日、彼がそう言ったのを思い出す。
わたしを見据えたまま彼は大きく振りかぶる。わたしは、バットのグリップを握り締めるように、右手に持ったハンドタオルに力を込めた。あの夏と同じように、左足を地面から蹴り上げるように上げ、身体をひねって背中のちょうど半分だけこちらに向ける。背番号は、『14』。わたしの誕生日が、1月4日だからと彼が望んでつけた背番号。18歳の彼が背負ったものは、わたしの幼稚な嫉妬心で、陳腐な十字架となってしまったのかもしれないと思った。
テイクバックの後、水面に拡がる円弧のように右腕がしなる。がしりと握られた白球が見えた。その向こう側に彼との3年間がフラッシュ・バックする。
わたしの大好きな彼の右手。しっとりと冷たく、驚くほど柔らかい。その指は細くて長く、華奢な野の花のようだ。
ふたり手をつないで、真っ暗な校庭を横切って駅に向かうのが、練習を終えた私たちの儀式のようなものだった。どんなに暑かろうが寒かろうが、彼の手はいつもひんやりとしていて、彼との記憶は、その手との記憶でもあった。
はじめてのキスで頬に添えられた手は、彼の唇よりも柔らかで、わたしは羽毛に包まれる雛鳥のさえずりを心に聞いた。
お互い初めて同士のセックスはなかなかうまくいかず、何度も失敗した。申し訳なさそうに彼は彼の右手を使ってわたしの上に射精した。そのうち、彼の右手はわたしも左手と繋がれ、わたしの左手が彼の射精を導くようになった。その後、口でするようになっても彼の右手はわたしの左手と繋がれ続けた。生暖かい彼の精液としとやかな手から伝わる彼のひんやりとした体温のギャップが愛らしく不思議で、くすくす笑ってしまうわたしを彼はいつも不思議そうに眺めていたのを思い出す。
ごめん。やっぱり、好きで好きでたまらない。
わたしは跳ね上がるように座席から立ち上がった。彼の右腕はしなり、プロ野球選手としての記念すべき1球が放たれようとしている。球場の歓声はピークに達し、彼だけに視線が注がれる。
パッーーーーーン
ポップコーンがはじけ飛んだような乾いた音が球場を突き抜けた。
その音とともにわたしの記憶は、途絶えている。わたしは、その場に倒れてしまったらしい。
事の顛末を知ったのは、その日の夜、病室のベッドの脇にある小さなテレビからだった。
彼の投げたボールはわたしに届くことなく、彼自身のすぐ後方にぽとりと落ちたシーンが何度も何度も放送された。あのポップコーンがはじける音もはっきり聞こえた。
“右肘骨折。投手生命絶望”
うずくまり、歯を喰いしばりながらも彼の視線はバックネット裏・・・わたしの方を向いていた。哀しくやさしい眼差し。
すぐさま担架がマウンドに持ち込まれ彼を乗せる。それでもなお彼は、担架に横たわったまま、わたしを見ていた。彼の視線の先には、誰も座っていないオレンジ色のシートの前に倒れたわたしがいたはずだ。
その日のわたしは、彼と同じ病院にいたんだと思う。病院前の駐車場には、大勢の報道陣と彼のファンが夜通しいた。カーテンを少しだけ開けて、その光景を見る。彼に会いたい。会って、あやまりたい。やりなおしたい。
だけど、あの時のわたしは、彼に会いに行く勇気がなかった。一晩中、ベッドの中で泣いて、泣いて、泣いた。
あれから10年。
その後の彼は、出口の見えないリハビリを6年間続けた。その間に結婚もしている。リハビリが終わり、2軍の試合に数試合登板した後、あっさりと現役を引退していた。あれほど注目されていた彼の引退を気にかけた人などいなかった。そして、25歳の彼は、バッティング・ピッチャーとしてチームに残り、裏方の野球人となった。その間、わたしは地元の保育園で保母をしながら、何人かの園児の父親と寝た。
彼が所属する球団は、今年、20年ぶりに日本一の座を手中にした。わたしは、球団のオフィシャル・ホームページを読み進めた。今年の優勝の立役者は、なんと言っても4番のセイケだ。ホームラン数、打点、打率すべてがリーグトップだった。三冠王として、年間MVPにも選出された。ホームページの目立つ場所からリンクが張られていた彼のコメントには、こう書かれたいた。
『今年の成績はバッティング・ピッチャーのトウマさんなしでは考えられません。各球団のほとんどのピッチャーの配球パターンやフォームの癖を解説しながら、またそれを再現して投げ込んでくれるんです。あれは神業ですよ。ストレートひとつとっても、何種類も投げ分けるんですから。今シーズンで引退してしまうのが、とても寂しく残念です。来シーズンは僕らの成長した姿を見てもれるよう頑張ります。』
トウマくん・・・彼は、いまどこで何をしているのだろう。