夜食用のサンドウィッチと缶コーヒーを近所のコンビニで購入した後、僕は家族が待つ自宅に向かった。なだらかな坂を歩いて上っていく。平均年齢60歳をはるかに超えている我が町内の深夜4時過ぎは、これから来る朝を待つのでなく、そのまま終息してしまいそうな深遠な静けさも支配されている。僕意外の僕の家族・・・妻と二人の子供たちも例外でなく、毎晩、この時間だけはあちら側の世界の住人となる。あちら側にいる人々と、僕らこちら側にいる人々は交信することは出来ない。携帯電話を没収された恋人のようなものだ。叫んでも叫んでも、すとんと声は吸い込まれてしまう。
 静かに鍵を回し、ドアをあける。深夜4時の我が家は、この時間、あちら側の世界に属している。息を止めて、妻と2人の小さな子供たちが目を覚まさないように静かにゆっくり階段を上がる。2階の廊下を突きあたりが僕の部屋だ。そこは、モンゴルの岩塩とペルーの赤土を混ぜたもので結界を張っているため、この時間のこの家の中で唯一こちら側の世界の時間が流れている。部屋に入り、一気に息を吐き、そして吸う。今夜も無事に帰還出来たことを感謝する。
 窓際に椅子を寄せ、サンドウィッチ、缶コーヒー、携帯電話を5センチほどの窓枠スペースに置く。
 昼間の空と同様、夜空にも色々な表情がある。今夜は、タイプPⅢと呼ばれる南半球の洋上でよく観測されるタイプのものだ。北半球のちょうど真ん中あたりに位置するこの窓からは、年に2,3度程度のみ見ることが出来る。なんとなく得をしたような気分がして、僕はククット下を向いて笑った。
 5時39分・・・今日の日の出時間まで、あと2分だ。もう、なんとなく空は地球色を帯びてきている。
 大勢のカラスたちが、寝床にしている下水管から次々と空に現れ、周回し始めた。

 【シュシュッ】

 5時39分。携帯電話にFM音源を使って自作した着信音が短く鳴った。時を同じくして、あちら側の世界とこちら側の世界を分けていた境界線が瞬時に落ちる。ふたつの世界は、ほんの少しだけ躊躇い、そしてカフェオレボールに注がれるミルクとコーヒーのように柔らかく交じり合っていく。僕は、携帯電話を手に取り、届いたメッセージを開いた。

『おはようございます。点検・保守の完了をお知らせします。今回の陥落地区はありませんでした。来週もよろしくお願いいたします。(二夜公団統括)』

 6年前に受け取ったメールをきっかけに、毎週金曜日の早朝は窓際で空を眺めながら迎えるようになった。あちら側とこちら側の違いは、よく分からない。それを上手く混ぜ合わせることに失敗する・・・つまり、陥落するとどうなるのかのも不明だ。なんでも時計が刻む横軸の時間でなく、縦軸の時間が暴走し飛び散ってしまうらしいんだけど、それが実際どういうことなのか理解出来ていない。ただ、世の中というか世界中に困難な出来事が増えているのは、どうもこのふたつの世界が共存出来ていない地区が増えていることが原因らしい。
 まあ、僕には分からないことだらけだけど、なんとなく世の中に役立っているのかもという予感と期待だけで、6年間続けてきた。ただ、窓の外をじっと見上げるだけでいいのだから、不器用な僕でも何とかなるしさ。
 金曜の朝から始まる新しい1週間が始まった。
 窓を開け、缶コーヒーのプルタブを引っ張り、朝の引き締まった空気と共に飲み込む。
 世界のみんな、おはようございます。