お好きなものを
僕はひとつのことを思い出そうとここに入所して1週間が過ぎた。

インコース低めの打ち方だ。

『禅ビル』…僕らはそう呼んでいる。
街の中心からやや外れた5階建ての古いビルで、一部のプロ・アスリートたちが利用する。
僕は、あるプロ野球球団の3番バッターだ。昨シーズンの終了間際、極度の不振に陥りそのままシーズンを終えた。原因は、分かっている。
インコース低めの球をすくい上げて打ち返すフォームを忘れたのだ。

もっとも得意なコースだったはずのものが狂うと、すべてがバラバラになる。

そして、すべてがバラバラなままオフシーズンに入った。
それを思い出すために、ここにいる。

『禅ビル』の外見はいたって平凡だ。しかし、その中に入るといささか様相は変わる。徹底的に無音状態に近づけているのだ。防音はもちろん、特殊な吸音材が壁一面に吹き付けられていて、あらゆる音が瞬時に吸い込まれる。足音ひとつとっても、ここで聴くそれは異質なものだ。音の芯の部分だけが聴こえ、それを取り巻く反響音がないからだとのこと。そんな空間で、僕らは忘れたフォームなどをひとつひとつ組みなおしていく。
今朝、退所したボクサーは、左ジャブから右フックのコンビネーションで使う、背筋にかかる緊張状態が左から右へ流れ移るポイントのようなものを思い出すためにここにやってきた。そして、すっきりした表情で1ヵ月後に控えたタイトル戦へ向かった。

ここはそんな場所だ。


さて、僕のインコース低めを打ち返すイメージを書き抜いてみる。

ピッチャーの指先からボールが離れるほんの少し前に、バットを持った左手のグリップを内側に軽くしぼる。
ボールの軌道を腰の左前方から巻き込むイメージで眼で追う。
左足をいつもどおりのオープンスタンス気味にステップを踏みだす。ただし、つま先の方向だけは開かず、膝から上の筋肉と腰の筋肉を結ぶラインに緊張を持たせる。その際、まだ腰の回転を始めてはいけない。つまり、上半身は残したまま、下半身だけを巻き上げるのだ。
ここまでの動作を終えた時点で、ボールは約3分の2進んでいるはずだ。
手首を固定したまま、バットの移動を始める。
左腕を前方に少しだけ移動させた後、肘を支点に最短距離でボールに到達するようにバットを回転していく。
この動きはごくわずかであるべきだ。本格的なバットの軌道は、上半身の回転がスタートした後に描かれることになる。
つまり、あくまで回転させるのであって、振ってはいけない。
回転を始めてすぐ、ねじった状態にある下半身に上半身が追いつくように委ねていくわけだが、その際、腹部を意識するとほんの少し前のめりになることがあるので、背中に集中して脊柱と左足の大腿骨が真っ直ぐ結ばれるように上半身を回転させる。
上半身の回転が、5分の2程度終えたら、本格的にバットをボールに向かって振り始める。
インコース低めの球は、身体を開いた状態でややおっつけ気味にバットを持っていくのがポイントだ。
振り始めてしばらくは手首から先だけ残す。そして、上半身の運動が半分を超えたあたりから、遅れた手首を上腕部の動きに追いつかせる。
そうすると硬いバットがしなるような感覚を覚える。
そして、手首、腕、腰がかっちりはまるべきポイントにはまったら、その3点を結んだラインにエネルギーを流し込む。
打ち返すボールの軌道が高い放物線を描きたい場合は、バットにボールを乗せ、バットのしなりを利用して前方に運び出すイメージ。
ゴロやライナー性の当たりを狙う場合は、ボールを日本刀で真っ二つに斬るイメージ。
大きく分けると、このふたつを使いわけるのだが、どちらもボールがバットに当たるインパクトの瞬間、ほんのごくわずかだけ肘から先を前方に移動させる。
そうすることにより、もともとイメージしていたインパクトのタイミングよりも、2センチ程度前でボールを捉えることが出来る。
このようにする理由もちゃんとある。
ボールがバットに当たり、バットがその力を吸収し、蓄えたエネルギーをボールに与えて、そのボールが打ち返されるまでの時間は、瞬時でなく意外と長い。
ボールがバットに当たる瞬間に向けてバットを振りはじめたはずだ。つまり、そのまま動作を続けると、バットにボールが当たった瞬間に最大のエネルギーをバットの芯に伝えることになる。
当たった瞬間が最大のエネルギー供与ポイントだとすると、、その後バットからボールが離れるときにはそのエネルギーはかなり減っているはずだ。
バットにボールが当たる瞬間に大切なのは、そのエネルギーの大きさではなく、ボールの芯とバットの芯の位置関係だ。バットの芯をボールの中央から5ミリ程度下に持ってくることが大切なのだ。
エネルギーの大きさが問題になるのは、その後なのだ。
だから、バットがボールを捉えたそのときでなく、ボールのエネルギーを吸収しきった後に最大のエネルギーが供給出来るように、インパクトのポイントを予定していた位置より少し前にずらす。
そうすると、最大のエネルギーをボールに伝えるタイミングは、その分だけ遅れてやってくる。
あとは、バットを背中に巻きつけるように身体全体で振りぬく。
そうすれば、必ずボールは燕のように空間を移動してくれる。

この一連のイメージを音のない203号室で、一日何百、何千と頭の中で繰り返す。
今日で4日目。
全体の60パーセントくらいは、それぞれのイメージがスムーズに繋がってきた。
しかし、「ボールがバットに当たるインパクトの瞬間、ほんのごくわずかだけ肘から先を前方に移動させる。」
ここがどうもうまくいかない。
肘から先だけでなく、上半身全体で動いてしまうのだ、頭の中で。
打つ瞬間に上半身がぶれると、ポップフライに終わってしまう。

窓の向こうは今日も雨。

ゆっくりゆっくりやればいい。

ピッチャーはいつものあいつだ。

ゆっくり振りかぶって、インコース低めをついてくる。

ハイビジョン映像をごくごくゆっくりのスローモーションで回したときのように、ボールが僕に向かってくる。

眼を閉じたままの僕の頭の中では、左手のグリップを握り締めた自分がスタートした。