041208


この雨の向こうには、もう一人の僕がいる。

僕は土砂降りの雨の中を一人走っている。かれこれ1時間は走っているはずだ。不思議と息は切れない。銀色のナイキのスニーカーは、水と泥を吸ってそれはまるで汚れたギブスのように僕を試すように重くなっていく。

目的地は、この森をぬけたところにある音楽堂だ。森は僕が住むシャッター通りが駅前に鎮座する街のはずれにある。江戸時代にときの権力者を接待するためにつくられ、その後、幕末に開国をよしとしない浪人たちが潜伏、最後に集団割腹をしたという悲哀に彩られた場所だ。小さなな森であるけど、きれいに整備され、真夏になってもそこだけひんやりとしている。タバコを吸うのをためらってしまうような凛とした空気が今も昔もそこにある。
その森では、5年前より毎夏、ロックフェスが開催される。とは言っても、海外から大挙してミュージシャンが来たり、旬のロックバンドがジュークボックスように競演するような大きなものではない。この街出身のオールドプレイヤーたちが帰ってきてライブをするのだ。
昔々、この街の不良たちはこぞってロックンロールで自己主張したそうだ。かわいい女の子を振り向かせるために、彼らはエアコンなんかない山の中腹にあったガレージに入れ替わり立ちかわりギターをかき鳴らし、海の向こうへ吼え続けていたとのこと。
そんな彼らはほどなくして、20年前の日本のロックシーンを切り拓くことになる。そして現在もなお生き様としてロックしている。まさに真のアーティストたちだ。
僕の中学生時代の大半の時間を占有していたのは、まさに彼らの音楽たちだった。
それらは、キラキラしていたしギラギラもしていた。

ここ数年間、僕の頭の大半は、いつもイライラしていた。仕事で良い成績を残しても、きれいな女の子と一緒にベッドに入っても、バイクに乗って時速200キロを超えても。まるで、ヘドロの海につかっているような毎日。
そして3ヶ月前、コンビニで支払いを済ませるように勤め先の会社へ辞表を出した。特に揉めることも慰留されることなく受理され、それからちょうど10日後に10年間勤めた会社に行かなくてよくなった。コンビニはレシートをくれるが、会社がくれたのは10年間分の虚無感だけだった。
『失われた10年』というフレーズをどこかで聞いたか、読んだかした覚えがあるが、僕にとってまさにそういうことだ。
ただ、リセット出来たような気がそのときはした。
帰りに車の中で、中学時代につくった今じゃテープも伸びてノイズだらけのマイ・ベスト・トラックスを繰り返し繰り返し聴いた。うんと遠回りして。

だけど会社を辞めても、イライラ感はつのるばかり。部屋から出ても出なくても、僕は僕自身で変わりなく、僕の問題は何も解決しないことに気づいた。僕の問題は、根が深いのか、それとも根無しなのか。

いつのものように昼前に起きて、まずは1本のタバコに火をつける。11階の僕の部屋にあるただ1箇所の窓を2センチだけ開け、ほんの少し冷たい風を頬に感じ、さて今日はこれから何をしようと漫然と考えていた。
すると、遠くの方から音が聴こえた。聴こえたというより、かすかに鼓膜がふるえた。鋭利なカッターを振り下ろしたときのような芯のある風がこの部屋を通り抜けようとする。風は、ベッド脇の壁を跳ね音をたてた。ヒュッ。
風は、枕元に丸まったまま置かれていたフライヤーをほんの少しだけ震わせ、その頭を起こした。そして、ゆっくりゆっくり元の位置に横たわる。それは、今日から明日にかけて行われるロックフェスのフライヤーだった。
タバコに先で行く先を決めかねていた灰は、ベッドの上を舞い上がりスパンコールのように僕のまわりを舞い降りていく。
そして、もう一発、今度ははっきりと遠くの方からの地鳴りのようなバスドラを音が窓の隙間から僕を打ち抜いた。
耳の奥で捕らえたロックンロールの咆哮は、僕の心にあったさびかけた鍵穴の汚れをブワッと吹き飛ばしてくれたような気がした。
あの山の麓に行かなくてはいけない。行くんだ、今すぐ。

エレベーターを使わず、一気に非常階段を駆け下り外に出た。
暴力的な夏の太陽の日差しで僕は一瞬気を失いそうになる。しかし、真っ白な光の中降る土砂降りの雨が僕を正気に戻してくれた。
バイクのキーを土砂降りの雨に中、ギラギラと輝く太陽に向かって放り投げる。どこまでもどこまでも高く。
僕は3度の屈伸と、大きな背伸びの後、全速で道路のど真ん中を走り始めた。走り始めてすぐに背後にキーが地面に叩きつけられる音がした。
それは、遅れて鳴った号砲だ。僕は、走った。20年ぶりに走った。

森に入ると、バスドラの振動が木々をその根元から揺らし、さらに走ると歪んだギターの音が樹皮を剥ぐ。
それらは僕が何度も何度も聴いたあのカセットテープに入っている曲たちだった。
僕は走る。あの頃に走り方を思い出しながら走る。
走りきった場所にあるステージでは、あのロックスターが唄っているはずだ。


はじまりも終わりもない、僕らにあるのはいつも道半ば

だから満ち足りたことなんか一度もない

あるのは、いつもコップ1杯の水



この雨の向こうには、もう一人の僕がいる。
走れ、走るんだ。