お好きなものを


わたしは、そこを二人だけの『カプセル』にしたかった。

多分無くなってしまっても世の中的には困らない零細企業のOLをして、せっせと貯めたお金で購入した10坪ほどのワンルームマンション。

壁という壁すべてを取り払い、配管工事もやりなおして、部屋の真ん中にバスタブを配置した。

ただのワンルームマンションをまるっとバスルームにしたのだ。他に無駄なものは一切置かない。

こことは別に会社の寮に契約しているので、日頃はそこで生活している。


取引先の営業マンFと深い関係になったのは、2年前の桜が咲き始める時期だった。どちらかというと、わたしの方から誘った。

Fは、39歳の妻子持ちでいつも森林系のにおいがするオーデコロンをつけている。わたしが、Fを意識するようになったのは、F本人よりもそのオーデコロンのにおいが先だ。そのオーデコロンの正体を知りたくて、Fに尋ねたのがきっかけでほどなくわたしたちは深い関係を持った。

わたしにとって、はじめての恋愛。

Fにとって、はじめての不倫。

月に一度ペースで、食事をしてセックスをする程度の付き合いだったが、わたしにとって、その時間だけは、ほかのどんな時間よりも甘く濃厚だった。


Fがまとっていたオーデコロンが生産中止になったのを知ったのは、たまたま見たインターネットのホームページだった。そのオーデコロンに含まれる成分が原因らしい。俗名『テンニョヒダ』という苔の一種らしい。その苔が絶滅危惧種に認定されたとのことで、採取不能になった『テンニュヒダ』なしでは作れないとのことで生産が中止されたのだ。

わたしは、オーデコロンの輸入代理店に連絡をし在庫をすべて買い取り、またそこと取引のある問屋やショップを紹介してもらい、可能な限り買い占めた。国内にあるだろう在庫は、1ヵ月半かけてほぼすべて入手した。

もちろん、Fのためにスタートした買占めだ。Fの驚き、喜ぶ顔を思い描いては、電話をし、メールを送り、購入するための送金を続けた。

集まったのは、115本。Fにとって、一生分あると思う。われながら、よく集めたものだ。

また、同じ時期にワンルームマンションを購入し、改装を終えた。


ふたつのことを終えた週末、わたしはFを新しい部屋に招いた。

オーデコロンを集めたことも、部屋をバスタブのみに改装したことも内緒にして。

Fは来なかった。来ないかわりに奥さんから、わたしの携帯に電話があった。

「そちらには行きませんので、よろしく。」

グチャッと音をさせて電話は切れた。


わたしは、バスタブにはじめてのお湯を張り、全部のオーデコロンをバスタブの脇に並べた。Fの好きな麻のセーターを脱ぎ、淡いグリーンの下着もとる。不思議なもので、部屋の真ん中で脱げばいいものを、脱衣は部屋の端っこでしてしまう。壁際で脱ぐ習慣は、スペースが広がっても変えられないちっぽけな自分が、少しだけかわいい。

かなり奮発したつもりの、ゆるやかなティアドロップタイプのバスタブに右足からつかり、一度だけ深く身体を沈めて身体をひるがえす。

バスタブの脇には、整然と並んだ115本のオーデコロンがある。

1本だけ、キャップをはずしてみた。

湯気のくぐもりともに、Fを感じるにおいがわたしを包んでくれた。

もう1本あけた。

Fに近づけたような気がした。

さらに、新しい瓶…そして、もう1本。次々にあけていって、バスタブの中にも入れた。垂らすのでなく、ドボドボと。

そして、115本目は頭からかぶってやった。

部屋の中は、湯気が充満し、オーデコロンの粒子がその隙間を埋めていた。もはや、そのにおいは何のにおいなのか分からなくなっていた。鼻をつんざく棘のようなものだ。そういえば、『テンニョヒダ』ってどんな植物なのだろう。ふわふわしたイメージがする名前だけど…。

ポロポロと流れ出る涙は、悲しみからなのか。それとも、この部屋いっぱいのオーデコロンの刺激によるものなのか。

もうすぐ夜が明ける。

わたしは、一生分のFのにおいを一晩で使い切った。

Fのにおいは、この先わたしから消えることはないだろう。