航空事故調査の際に、目撃証言はどのように扱われるのか。これは今もって課題であり、日本においては根本的に解決されていない。

 

   航空事故に限らず、他の事件事故においても目撃証言は原因究明に重大な鍵を握っていることが多い。幼児の目撃談がきっかけで犯人逮捕に結びついた事件もある。

 

   目撃証言の多くが事故調査の専門家から見ると「素人」の談話ととらえられがちだが、先入観を持って望めば大事な証拠を取り逃すことにもなりかねないのだ。

 

   目撃証言について議論になった航空事故にばんだい号墜落事故がある。「ばんだい号」とは当時東亜国内航空(日本航空と合併する前の日本エアシステムの前身)が自社のYS-11機につけていた愛称である。

 

  1971年7月3日夕刻、東亜国内航空63便としてYS-11「ばんだい号」(機体記号JA8764)は札幌・丘珠空港を出発、函館空港に向かった。天候が悪く、風雨により函館空港への着陸条件はぎりぎりの状態だった。63便は函館空港付近まで飛行した後、18時5分から10分頃に空港から北西約15Kmの横津岳(北海道亀田郡七飯町)に墜落した。

 

  63便が消息不明になった後、捜索には非常に長い時間を要した。日本航空123便と同じく、墜落現場が特定されたのは一夜明けた翌日だった。

運航乗務員2名、客室乗務員2名、満席の乗客64名の計68名全員が死亡した。

 

 63便ばんだい号の事故調査で論点になったのは、同機が函館空港上空に到達していたか否かである。63便にはフライトレコーダーと呼ばれる飛行記録装置やボイスレコーダーと呼ばれる操縦室の音声記録装置が搭載されていなかった。それが故に、墜落に至る同機の軌跡の特定に困難を極めたのであった。函館上空に到達せずに墜落したと主張する根拠は、機長がADFと呼ばれる装置が落雷の帯電などによる誤動作で半回転したことをもって函館空港付近のNDB(指向性無線標識)上空と勘違いして降下を開始して墜落に至ったのではないかという「仮説」である。 

  しかしそれに反論する専門家は、当日のような天候下でADFの誤動作が起きかねないことは63便の機長のようなベテランであれば百も承知で、勘違いはまずありえないと主張した。

一方、63便が函館上空まで到達したと主張する根拠には、函館市内での数々の目撃情報や爆音を聞いたとする多くの証言がある。

 

  証言の中には63便の後に到着した全日空機と明らかに取り違えたものも含まれていたが、ラジオの番組を聴いていて、時間が特定される証言については極めて信憑性が高いと言わねばならなかった。

 

   採用するに足る目撃者の証言を総合した結果、63便は函館空港上空まで飛行し、着陸復航した後で横津岳に向かった航路が割り出された。ところがパイロットがNDB上空と勘違いしたという「仮説」との整合性がないとの不可解な理由で証言は採用されないことになったのだ。

   証言を採用しないことをめぐっては、証言担当の調査関係者が抗議の辞任する事態にも及んだ。

 

   目撃証言が事実上無視された事故調査については、日航123便墜落事故に関する拙文「小さな目が見た2機の戦闘機」でも触れた。

日本の航空事故調査においては、本来客観的に事実を積み上げなくてはならないはずのものが、はじめに結論ありきのような形で進んでゆくケースが少なくない。とりわけ調査をめぐって何らかの利害関係が関わったり、非論理的な議論が調査委員会の主流になることで、調査の本質から外れて実に煮え切らない結論に終わるケースがあった。

 

  日本における航空事故調査は、その驚くほどの予算の少なさと何らかの利害関係が絡むことにより、全く信用のおけないものだと思っている。