毒親について相談を受けました。
なんて申し上げればよいのでしょうか。
大なり小なりの心の傷を誰しもが持っており、そして誰しもが何事もないように胸にしまい毎日を過ごそうと努力しているのだろうと思います。
口火を切った途端に傷口が少しずつ開きだしてしまう。
そのきっかけを責任のない私が作ってしまっていいのでしょうか…。
そのまま蓋をしてしまうのか昇華させるのかそれは個人差があり、その方法も人様々で一概に容易く人様の相談を受けるような事柄ではないように思えます。
恐縮ですがご相談をお受けすることはできません。申し訳ございません。
ただ私の禊として経験談を書き込むことします。
私の親も毒親の部類に入るかも知れないと思うのですがさてどうでしょうか。
実感できることはありませんでしたが、俗にいう中流家庭だと思います。
これは小学生の時の記憶です。
食事は子供はおかずが1種類。両親は3~5種類。おやつは母の機嫌の良い日のみ。
お小遣いはなし。
服は普段着が数着とお出掛け用が1着。
病気になるとお医者様に掛かった後は、「そばに寄るな。」と子供部屋に放置される。
成績が下がると「気分が悪い。」と言って掃除機の棒で殴られる。
旅行は両親のみ。小学生にも拘わらず子供達のみでお留守番。
私は痩せっぽっちで病気がちな何も言い返せないいつも両親の愛を求めている幼気な女の子でした。
それでも両親が正しいと信じていたそれが少女期です。
置かれてる状況が理解できたのは中学生の時でした。
切願する志望の私学があり、「成績が良くて授業参観では鼻が高い。」とよく喜んでくれていたので承諾を得られると確信し、勇気を出して両親に希望を伝えました。
すると一笑に付され、
「言語道断。子供にお金を使うなど勿体ない。公立1校だけを受験することしか許しません。」と即答を受けたのでした。
外商が出入りする暮らし向き…。それに同学年で私学に行く生徒は珍しくないことでした。
「子供にお金を使うなど勿体ない。」という言葉が中学生の私の頭の中でグルグル回っていました。
思い当たることは山程ありました。
それから私達子供は両親に何も求めず、何事も自分達のできる範囲の努力をして学校を卒業。
各人、勤務地選択を地方にして、各々実家を出て自立しました。
これが両親と一緒にいた現時点での最期です。
というのは、
両親と離れ何年にもなりますが、誰も両親と連絡を取ったことがなく、また両親からの連絡も誰にも入ることがなかったからです。
2年程前、叔母から、
「自宅は、子供部屋がいらなくなったからと、下の子が自立するとすぐにリフォームっていうの?リノベーション?してね、とてもハイセンスに変わっているわよ。それに相変わらず旅行をしながら楽しそうに暮らしているから安心していいわよ。」と、叔父が他界した事と、既に葬儀は終えている旨を連絡して下さった時に、そう聞かされました。
叔父の死と葬儀の連絡がなかったことにショックを受けましたが、両親の近況を聞いて、私は心の中で自分を笑っていました。
両親との決別は、大人になることによって子供達に初めて与えられた自由選択でなければいけませんでした。それは意を決してのことだったからです。
だけど両親は、以前から子供達が早々に自立するのを心待ちにしていて、家に誰もいなくなった時点で、最小限の経費と労力で子育てを終えたことに祝杯を挙げていたに違いありません。
初めてお互いの利害関係が一致した。ってこと?
私達子供側の敗北ね。
私は心の中で呟いていました。
笑えました。
叔母は、「連絡をしたことは内緒にしておいてね。」と言って電話を切りました。
これが毒親と言えるかどうかわかりませんが、あの時私達は家族だったのだろうか、今はどうなのだろうかと疑問に感じてはいます。
ですが答えは要らないのです。
この書き込みを禊とします。
なんて申し上げればよいのでしょうか。
大なり小なりの心の傷を誰しもが持っており、そして誰しもが何事もないように胸にしまい毎日を過ごそうと努力しているのだろうと思います。
口火を切った途端に傷口が少しずつ開きだしてしまう。
そのきっかけを責任のない私が作ってしまっていいのでしょうか…。
そのまま蓋をしてしまうのか昇華させるのかそれは個人差があり、その方法も人様々で一概に容易く人様の相談を受けるような事柄ではないように思えます。
恐縮ですがご相談をお受けすることはできません。申し訳ございません。
ただ私の禊として経験談を書き込むことします。
私の親も毒親の部類に入るかも知れないと思うのですがさてどうでしょうか。
実感できることはありませんでしたが、俗にいう中流家庭だと思います。
これは小学生の時の記憶です。
食事は子供はおかずが1種類。両親は3~5種類。おやつは母の機嫌の良い日のみ。
お小遣いはなし。
服は普段着が数着とお出掛け用が1着。
病気になるとお医者様に掛かった後は、「そばに寄るな。」と子供部屋に放置される。
成績が下がると「気分が悪い。」と言って掃除機の棒で殴られる。
旅行は両親のみ。小学生にも拘わらず子供達のみでお留守番。
私は痩せっぽっちで病気がちな何も言い返せないいつも両親の愛を求めている幼気な女の子でした。
それでも両親が正しいと信じていたそれが少女期です。
置かれてる状況が理解できたのは中学生の時でした。
切願する志望の私学があり、「成績が良くて授業参観では鼻が高い。」とよく喜んでくれていたので承諾を得られると確信し、勇気を出して両親に希望を伝えました。
すると一笑に付され、
「言語道断。子供にお金を使うなど勿体ない。公立1校だけを受験することしか許しません。」と即答を受けたのでした。
外商が出入りする暮らし向き…。それに同学年で私学に行く生徒は珍しくないことでした。
「子供にお金を使うなど勿体ない。」という言葉が中学生の私の頭の中でグルグル回っていました。
思い当たることは山程ありました。
それから私達子供は両親に何も求めず、何事も自分達のできる範囲の努力をして学校を卒業。
各人、勤務地選択を地方にして、各々実家を出て自立しました。
これが両親と一緒にいた現時点での最期です。
というのは、
両親と離れ何年にもなりますが、誰も両親と連絡を取ったことがなく、また両親からの連絡も誰にも入ることがなかったからです。
2年程前、叔母から、
「自宅は、子供部屋がいらなくなったからと、下の子が自立するとすぐにリフォームっていうの?リノベーション?してね、とてもハイセンスに変わっているわよ。それに相変わらず旅行をしながら楽しそうに暮らしているから安心していいわよ。」と、叔父が他界した事と、既に葬儀は終えている旨を連絡して下さった時に、そう聞かされました。
叔父の死と葬儀の連絡がなかったことにショックを受けましたが、両親の近況を聞いて、私は心の中で自分を笑っていました。
両親との決別は、大人になることによって子供達に初めて与えられた自由選択でなければいけませんでした。それは意を決してのことだったからです。
だけど両親は、以前から子供達が早々に自立するのを心待ちにしていて、家に誰もいなくなった時点で、最小限の経費と労力で子育てを終えたことに祝杯を挙げていたに違いありません。
初めてお互いの利害関係が一致した。ってこと?
私達子供側の敗北ね。
私は心の中で呟いていました。
笑えました。
叔母は、「連絡をしたことは内緒にしておいてね。」と言って電話を切りました。
これが毒親と言えるかどうかわかりませんが、あの時私達は家族だったのだろうか、今はどうなのだろうかと疑問に感じてはいます。
ですが答えは要らないのです。
この書き込みを禊とします。