日本の航空機、特にガソリンエンジン開発に貢献した人物に田中館愛橘がいます。

 

田中舘愛橘は、岩手県二戸生れの物理学者で最初期の東京大学で学びました。

その後東大教授、貴族院議員などを歴任しました。

地球物理学の研究、度量衡法の確立、光学・電磁気学の単位の研究、航空学・気象学の普及など、わが国の理科系諸学の基礎を築き、また熱心なローマ字論者として知られます。

田中舘博士の業績を、あえて一言でいうと、『明治初期に起こった、「日本の近代化」を、科学者として支え続け、今日の日本繁栄の基礎を築き、日本の独立を助けた』に尽きると思います。

かつての日本は、西洋列強やアメリカに侵略される危機がありました。

長い間鎖国をしていた日本は、西洋の事情にも疎く、科学技術や工業の発展に、大きく立ち後れていたのです。
 
一方、西洋では産業革命によって、大きく発展をし、繁栄を求め続けてます。

蒸気船の発明などによって、世界は一気に狭くなったのです。

西洋列強は競って各地の侵略をすすめ、ついに東洋へと到達します。

既に清国(支那)はイギリスによって侵略されていました。

日本は危機にさらされていたし、ロシアの脅威も大きかったのです。

明治維新後、「弱小国、後進国という現実」を突きつけられた日本は、必死で海外に追いつき、追い越さねばなりません。

そうしなければ日本は無くなってしまう可能性があったのです。

だが工業力も科学技術も無かった日本が、近代化に失敗すれば、どこかの属国としてしか生きていく道はなかったと田中舘愛橘は考えました。

下斗米将真の教えが博士の中で生きていたのです。

当時の日本は、国としての力を必死で蓄えなければならなかった時期です。

工業化、近代化も急務でしだが、開国後わずか30年で日本はロシアと命運をかけた戦いをする事になり、弱小とみられていた日本はなんとか日露戦争に勝利する事が出来ました。

ここに至って日本は列強各国に認められる国となっていきますが、その近代化を第一線で支え人を育て、発展させる基礎を築いた一人が田中舘博士なのです。

博士は、東京大学の第一回目の卒業、つまり日本がやっと一人歩きを始めた頃にその「第一歩を踏んだのでした。

「日本は世界と対等に渡り合えなければならない「「いつまでも外国人教師に頼っていてはならない」と考え、博士は必死で教え、日本の学者を育てたのです。

まぎれもなく日本の物理学のスタートは愛橘博士からはじまっています。

博士は一生を国家の発展のために捧げたといえます。

 

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