「水戸黄門」で知られる,水戸藩二代目藩主・徳川光圀公が藩主の座を退いた後,元禄4(1691)年から元禄13(1700)年に没するまでの晩年を過ごした隠居所。
光圀公はここで『大日本史』の編さんの監修に当たりました。

入口には光圀が紀州から取り寄せ,移植した熊野杉が天を覆っています。

建物は茅葺き平屋建て,内部は粗壁のままで,どの部屋にも装飾はなく,書斎も丸窓だけの三畳間と質素な佇まいです。
なお,現在の建物は,文政2(1819)年に再建されたもので,春の梅,夏の新緑,秋の紅葉,冬の雪景色など,季節ごとに異なった表情が楽しめます。

 

これはまだ入り口で、隠居所ではないです

 

 

 

梅の木は古い木ですが、手入れが行き届いています

 

うっそうとした山に囲まれ、昔の面影が偲ばれます

 

 

 

 

ここから入ります

 

西山御殿

 

 

 

中に入ると、黄門様の声でお出迎え、ちょっとびっくりしたわ。

 

 

 

質素な佇まいでした

 

徳川の御紋

 

 

 

 

 

目の前には大きな築山

 

 

 

 

 

 

【説明文はお借りしました】

水戸黄門”は、水戸藩第2代藩主 徳川光圀に対する隠居後の別称

テレビ時代劇「水戸黄門」では、黄門様のお供として助さん、格さんが登場しますが、そのモデルとなった実在の人物は、

助さん=佐々介三郎、格さん=安積覚兵衛とされていて、いずれも光圀の側近です。

テレビで、黄門様、助さん、格さんで諸国漫遊を行いますが、実際にそのような事はなく、また光圀のみでの全国規模の旅も行っていないため、テレビはフィクションのようです。

佐々介三郎と安積覚兵衛は、『大日本史』の編纂という大事業に従事した使臣、それも極めて有能な使臣という共通点があるそうです。

佐々も安積も武士(藩士)でしたが基本は学者であり、光圀の護衛が務まるほどの武術を備えていたとは考えにくい。

 

佐々は光圀より12歳若かったのですが、光圀が73歳で死去する2年前に59歳で亡くなりました。

亡くなるまでの約2年間は、藩主引退後に西山荘へ移住した光圀に近侍しており、それ以前は『大日本史』編纂所である彰考館の総裁を務めていました。

佐々は、光圀の命で全国各地へ資料採訪の旅に出ています。

訪れた各地における活動は、光圀の代役として人々に尊敬されるような手順・方法で行われたそうです。

名君誉れ高い光圀の家臣として各地で歓迎され、時にはその地での困りごとや問題の解決に一役買ったかもしれないですね

こういう事から、佐々、安積を黄門様のお供である助さん、格さんとして、諸国を旅する黄門様御一行が人々の難儀を救う活躍話になったのでしょうか

安積はほとんど彰考館詰めで、佐々のように旅へ出ることはなかったそうです。

 

安積は光圀より28歳も年少で、光圀の有能な使臣として『大日本史』編纂に尽力しました。

複数制の彰考館総裁を佐々とともに務め、“光圀の没後、有能な使臣がつぎつぎと死没していく中で82歳の長寿を保ち、54年の長期にわたって修史事業に全精力を傾け、最も顕著な業績を残したと評されています。

 

世直しの旅をする黄門様と助さん、格さんの活躍を観る上では少々拍子抜けですが、純粋にテレビ時代劇「水戸黄門」を楽しみましょう

 

 

自動販売機に葵の御紋

 

懐かしい公衆電話

 

水戸の駅前に戻ってきました。

黄門様の像

 

 

 

 

 

印籠を突き付けて、これが目に入らぬか~~~~~バッタバッタと悪者を成敗する

純粋に黄門様の旅を楽しんできました。