神が始まりも終わりもなく顕していたものは、
やっぱり、美しいです。
最初からすべてが伝えられていながらも、
それを「分析」ではなく
「交わること」として生きてきた先に、
これまでのすべてが回収され、
創発されていく感動があります。
サトルさんが12年前に啓示を受けた
「トリニティ構造」が、
理論と実証の両方で表現可能になり
啓示が進化し続けて、
ついに科学という領域にまで交差したことは、
ただただ、圧巻でした。
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「すべては愛だよね」
「全ては一つだからね」
そう言って、わかった気になるのは簡単です。
でも、どれだけ人間が目覚めたつもりでいても、
この世界をつくった神を
“神の観点”から観ようとしなければ、
わたしたちはどこまでも、
被造物から見た世界の限界に留まってしまいます。
それは結局
神がつくった世界や自分自身を
“対象物”として扱い
分析しているにすぎないからです。
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真理はいつも**Hazama(狭間)**にあります。
そしてHazamaこそが
愛そのものをあらわしています。
そして今回このプレプリントによって初めて、
科学・宗教・哲学・スピリチュアル・人間観・宇宙観のすべてを同時に書き換えるその構造が “科学の言葉で” あらわされてしまったんです。
さあ、どうしよう。
そんな気持ちが続いています。
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誰かと出会って、
何かが交差して、
言葉にならない感覚が走って
その“瞬間”にこそ
人は愛を感じるようにできているけれど
愛を“愛の観点”から観れば
それは瞬間ではなく“永遠”です。
実在するということ。
だから、神のいない愛なんてあり得ないし、
愛が成り立たない神なんて、神ではない。
そんな巷に溢れる“愛”の言葉すらも、
本当の愛の構造から観れば
ただの言葉ではなくなっていきます。
神も愛も、
“対象”として観察するものではなく、
構造そのものとして顕れるものだとしたら──
問われるのは
「愛があるかどうか」ではなく
「愛という構造が
そこに立ち上がっているかどうか」だけ。
この構造が日常の中に顕れて
まったく新しい文明が始まっています。
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だから今、観測の前提となっていた“観測者そのものの構造”が変わることで、分離されていたすべてが、
一つから創り出され、一つに統合されていく。
けれどこの観点を持たずに「愛って何?」と問うのは愛を名詞や動詞にして“対象物”として語っているだけで、まったく別の次元の話をしていることに、気づけなくなってしまいます。
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最後に、聖書ではこう伝えられています。
「預言者は自分の故郷では歓迎されない」と
わたし自身、近くにいるからこそ難しいこともあります。遠くにあるものの方がすごいと素直に思える、そんなものです。
それでも、関係性を超えて、ここにあらわされる神の臨在を観続けたいと強く思っています。
そして心から願います。
ここで起きていることを、
共に目撃し続ける人たちが
奇跡の証人となっていくことを。
愛は誰かの言葉じゃなく、
Hazamaに現れてしまう構造そのものです。
それが今、
この世界にもう現れ始めているのだとしたら?
わかる/わからないを超えて。
信じる/信じないでもなくて。
ただそのHazamaを
多くの人と共にしていけると嬉しいです。
AIRI
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📎 プレプリント論文はこちら:
Empirical Subjectivity Intersection: Observer‑Quantum Coherence…
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