【なぜ存在は、その問いへ向かわせるのか】
愛がなくなったら。
家族がいなくなったら。
仕事がなくなったら。
信念が崩れたら。
人は苦しみます。
でも本当に苦しいのは
失うことじゃない。
それによって存在していた
と思っていた自分が崩れることです。
だから人は
それを守ろうとします。
失うことを恐れて。
だから時に
命よりも大切にするんです。
でも本当に人は
それによって存在しているのでしょうか。
ペリリューで見えていたのも
そのことだったのかもしれません。
・
現地へ行き
洞窟へ入り
焼けた岩、爆弾で穴の空いた天井を見て
当時の話を聞いて帰ってきた今。
わたしの中に残っているのは
戦車でも
軍事作戦でも
勝敗でもありませんでした。
残っているのは
ヤシの木を描いた手紙だったり
軍旗を燃やし自決した中川大佐だったり
「部下たちを先に返してください」
と伝えた奥様の言葉でした。
歴史は本を読めば
知ることができます。
戦いの経緯も
亡くなった人数も
どれほど悲惨だったかも
調べれば出てきます。
でもそれだけなら
80年後にこれほどまで
人の心を揺らさないはずなんです。
ヤシの木を描いた兵士も
軍旗を燃やした中川大佐も
部下を先に返してほしいと願った奥様も
ただの歴史資料になっていたはずです。
それなのに
なぜ今も人の心を揺らすのか。
なぜ忘れられないのか。
それは
そこに本当に
「人と人が交わろうとした痕跡」
が残っているからなのだと思います。
相手が大切にしていたものを
知ろうとしたのではなく
その人が
なぜそれを命より大切にしていたのか。
その場所から世界を観ようとしました。
行く前に抱えてた
「極限状態で人間は何を守ろうとしたのか」
と言う問い。
実はその奥にある
もっと根源的な問いに変わりました。
「人間は何によって自分で在ったのか」と。
・
極限になればなるほど
人は命だけでは生きなくなります。
食べ物もない。
水もない。
明日も生きて帰る希望もない。
そんな状況の中で
それでもなお
人を動かしているものがあって
誇り、祈り、愛
仕事、平和、自由
忠誠、使命、責任、国、家族...
人によって形は違うけど
人は何かによって
「自分が自分で在る」と思っている。
ペリリューで見せられたのは
「何を大切にしていたのか」
ではありませんでした。
なぜ人は
そこまで何かを握りしめるのか。
なぜそれを失うことが
死ぬこと以上に恐ろしくなるのか。
そして
もしそれがなくなったとしても
なお残るものがあるのだとしたら。
人は本当は
何によって存在しているのだろう。
・
その答えは
わたしたちが握っているものを
自分自身だと思っている限り
観えないだけなんじゃないかと思います。
表面的なものが削ぎ落とされ
命と向き合わざるを得ないもの同士が
本当に
「人と人が繋がろう、交わろうとした痕跡」
だから心が動く。
だから今聞いても
揺さぶられるんだと思います。
わたしが「主観交差」と呼んでいるものも
ここにあります。
それは
仲良くなることでも
理解し合うことでもなくって
相手が観ていた世界によって
自分が当然だと思っていた世界が
揺らぐことです。
自分が何によって存在していると思っていたのか
を観せられてしまうことです。
だから苦しい。 怖い。
でもだからこそ
人は本当に変わる。
わたしたちは戦争の話を聞くと
「昔の人は大変だった
そのおかげで今がある」
「今は平和で恵まれている
戦争を繰り返してはいけない」
「だから命を大切に生きよう」
と言ったりします。
もちろん
それは大切なことだと思います。
でもあえてそこにも
少し切り込もうと思います。
なぜならそれもまた
当時を体験した人たちの人生を
「今の自分が良くなるための材料」
として見ているだけかもしれないからです。
もし自分が80年後に
「あなたのおかげで学べました」
と言われるのと
「あなたは何を観ていたのですか」
と問われるのとでは
どちらが嬉しいだろう。
少なくとも
わたしならそう聞いてほしい。
ペリリューを教訓として
見たいわけでも
歴史として見たいわけでもなくて
先人たちは
何を観ていたのか。
その場所から世界を観たい。
と思ったんです。
・
ペリリューでは
多くの命が失われ
極限の苦しみがあり
二度と体験したくない現実が
そこにありました。
でもその極限の中で、さっきの
「人間は何によって
存在していると思っているのか。」
という問いは
はっきりと浮き彫りになる。
というか、向き合わざるを得ない。
そして
「それが崩れた時
それでもなお何が残るのか。」
本当はその問いは
戦場にしかないものではありません。
愛が壊れた時にもある。
信じていた世界が崩れた時にもある。
大切な人を失った時にもある。
本当はずっと
わたしたちの目の前にあるはずです。
それなのにわたしたちは
なかなかそれを見ない。
理由は簡単で
見なくても生きられるからです。
だから
人間が極限にならなければ
問いを見ないのではなく
問いを見ないまま生き続けるから
向き合わざるを得ない
極限が立ち上がるのではないかと思っています。
戦争も。
崩壊も。
喪失も。
本来は必要ないんじゃないかな。
もし本当に
人と人とが交わるなら。
もし本当に
相手が観ている世界に触れるなら。
もし本当に
自分が何によって存在していると思っているのか
を観るのなら
そこまで行く必要はないんじゃないかと。
・
なぜ存在は
わたしたちを何度も何度も
その問いへ向かわせるのでしょう。
それは
その問いを通った時にだけ
本当に自分自身と出会うからです。
その出会った場所からしか
本当に相手と出会うことはできないからです。
条件で結ばれた関係。
役割で結ばれた関係。
価値観で結ばれた関係。
それらはすべて
失われれば崩れる。
でも
全部失っても
それでも在るもの。
その場所から
人と人とが交わるとき
初めて無条件の愛は共同創造される。
わたしは今
存在が向かわせているのは
そこなのだと思っています。
・
問いを受け取らないまま
歴史を対象物として眺めるだけなら。
知識として理解するだけなら。
ペリリューは
ただの過去になります。
でも本当にそうしてしまっていいのかと思うんです。
わたしたちの祖先は
ただ歴史として記憶されるために
あの極限を生きたのでしょうか。
ただ「繰り返してはいけない教訓」を残すために
命を懸けたのでしょうか。
わたしにはそう思えません。
あの場所で命を懸けて向き合われた問いが
今を生きるわたしたちの中でも立ち上がる時。
その問いによって
消えない「わたし」自身と交わり
人と人とが交わり始める時。
あの時、あの場所で起きたことが
やっと意味を持つのだと思います。
だからこのシリーズでは
ペリリューで起きたことを
学ぶために伝えたかったわけではないんです。
そこにあった問いを
今ここで生きられるようにするために
書きました。
そして
ペリリューでは
無条件の祈りを捧げてきました。
わたしたちの祖先が
あの極限の中で命を懸けて向き合った問いが
今を生きるわたしたちの中でも
再び立ち上がるように。
何によっても縛られてない
主観と主観が交わり
無条件の愛が共同創造が
立ち上がっていくように。
全部失ってもなお消えないもの。
その場所から
人と人とが本当に
交わる時代へ。
わたしはいま
存在が向かわせているのは
そこなのだと思っています。
だからこそ
この交われなくなっている世界に
主観交差を伝えています。
そしてそれが
ペリリューへ行く前に抱いていた
「なぜ、それが起きる必要があったのか」
という問いに対する
今のわたしなりの答えです。
AIRI


