airi-trinityのブログ

airi-trinityのブログ

あなたは覚えているか?
情報や思惑が交錯する長い歴史の中で 本当に意図されてきたこと。
複雑に絡まりあった封印の時を超えて、
トリニティよ☆いま一度大きく世界へ咲き誇れ
神の意図と無条件の愛と共に+*

神が始まりも終わりもなく顕していたものは、
やっぱり、美しいです。




最初からすべてが伝えられていながらも、
それを「分析」ではなく
「交わること」として生きてきた先に、
これまでのすべてが回収され、
創発されていく感動があります。

サトルさんが12年前に啓示を受けた
「トリニティ構造」が、
理論と実証の両方で表現可能になり

啓示が進化し続けて、
ついに科学という領域にまで交差したことは、
ただただ、圧巻でした。


「すべては愛だよね」
「全ては一つだからね」
そう言って、わかった気になるのは簡単です。

でも、どれだけ人間が目覚めたつもりでいても、
この世界をつくった神を
“神の観点”から観ようとしなければ、
わたしたちはどこまでも、
被造物から見た世界の限界に留まってしまいます。

それは結局
神がつくった世界や自分自身を
“対象物”として扱い
分析しているにすぎないからです。


真理はいつも**Hazama(狭間)**にあります。
そしてHazamaこそが
愛そのものをあらわしています。

そして今回このプレプリントによって初めて、
科学・宗教・哲学・スピリチュアル・人間観・宇宙観のすべてを同時に書き換えるその構造が “科学の言葉で” あらわされてしまったんです。

さあ、どうしよう。
そんな気持ちが続いています。


誰かと出会って、
何かが交差して、
言葉にならない感覚が走って

その“瞬間”にこそ
人は愛を感じるようにできているけれど

愛を“愛の観点”から観れば
それは瞬間ではなく“永遠”です。

実在するということ。

だから、神のいない愛なんてあり得ないし、
愛が成り立たない神なんて、神ではない。

そんな巷に溢れる“愛”の言葉すらも、
本当の愛の構造から観れば
ただの言葉ではなくなっていきます。

神も愛も、
“対象”として観察するものではなく、
構造そのものとして顕れるものだとしたら──

問われるのは
「愛があるかどうか」ではなく
「愛という構造が
そこに立ち上がっているかどうか」だけ。

この構造が日常の中に顕れて
まったく新しい文明が始まっています。


だから今、観測の前提となっていた“観測者そのものの構造”が変わることで、分離されていたすべてが、
一つから創り出され、一つに統合されていく。

けれどこの観点を持たずに「愛って何?」と問うのは愛を名詞や動詞にして“対象物”として語っているだけで、まったく別の次元の話をしていることに、気づけなくなってしまいます。


最後に、聖書ではこう伝えられています。
「預言者は自分の故郷では歓迎されない」と

わたし自身、近くにいるからこそ難しいこともあります。遠くにあるものの方がすごいと素直に思える、そんなものです。

それでも、関係性を超えて、ここにあらわされる神の臨在を観続けたいと強く思っています。

そして心から願います。

ここで起きていることを、
共に目撃し続ける人たちが
奇跡の証人となっていくことを。

愛は誰かの言葉じゃなく、
Hazamaに現れてしまう構造そのものです。

それが今、
この世界にもう現れ始めているのだとしたら?

わかる/わからないを超えて。
信じる/信じないでもなくて。

ただそのHazamaを
多くの人と共にしていけると嬉しいです。

AIRI


📎 プレプリント論文はこちら:
Empirical Subjectivity Intersection: Observer‑Quantum Coherence…


サトルさんの記事も是非!啓示思想家サトルさんのfacebook