伊丹十三監督没後15年に焦点を当てた番組を、深夜2:10~3:15に放送していましたね
BSの再放送のようです。
全2回、次回は6月 1日 金曜 午前2時10分~3時09分です。
第1夜の途中から 見ました。
昨日は咳が酷くて起きて 偶然に・・・。
監督の生い立ちから家庭の様子、二人の息子の父親の姿、
宮本信子さんが映画作りを勧め、宮本さんの父親の死をきっかけに、
実際にあった自分達の体験したお葬式を映画にしよう!と夫婦で決意し、
撮影を始めたあたりまでを描いてました。
予算がないので、セットは実際にお葬式を行った自宅で撮影、
「映画のタイトルが、お葬式で暗くなるとお客さんが来てくれないだろう?
だからお前にポスターの絵を書いてもらいたい」と、
小学生の息子に映画のポスターに使用するこの絵を書かせたのだそうです…。
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伊丹さんてマルチタレントだったんですね。アフタヌーンショーのレポーター!?
51歳にして、自分の父と同じ監督をやりたいという、思いがやっと叶い
希望に燃える・・・・前編。 泣けました・・・(ノ_-。)
子供ながらに伊丹作品は独特の雰囲気で面白いと思っていましたけど・・
映画は変われどいつもメンツは同じなんですよね。
皆さん仲良かったんでしょうねーーー。
メジャーな映画監督ながらも とても勇気ある人で
巨大宗教組織の闇を映画化しようとして、謎の死を遂げたと知りまして・・・
1997年当時は全く興味もなかったですけれど
・・・・・最近知って、とても衝撃でした。(´・ω・`)
今では誰も真似できません。。。
伊丹十三 wikiより引用
突然の死
1997年 12月20日、伊丹プロダクションのある東京麻布のマンション下で遺体となって発見された。当初から、経緯について様々な推測が飛び交うことになった。
かつて『ミンボーの女』(1992年)公開後に襲撃事件があった経緯から、当初から暴力団 の関与を疑う声はあった。
ただ、事務所にワープロ 印字の遺書らしきものが残されていて、そこに「死をもって潔白を証明する」との文言があったことから、写真週刊誌 「フラッシュ 」により不倫 疑惑が取り沙汰されたことに対する抗議の投身 自殺 か、とも推測されるようになった。だが、手書きでなくワープロというのが不自然だとされた。
また、死の直前、FLASHの記者から不倫疑惑について問われた際、伊丹は笑いながら「妻に聞いてみればいいよ」「(不倫疑惑は)いつものことだから」と軽口で答え、その様子がFLASH誌面に掲載されている。また死の5日前まで医療廃棄物問題の取材も続けていた[14] 。
「飛び降り自殺」はまさにその直後のことであり(インタビュー、FLASH発売直後)、自殺直前の様子との不自然さから、その「自殺」には強い疑惑が持たれ続けている。
ジェイク・エーデルスタイン が取材した人物によると、伊丹は当時後藤組 と創〇学会 の関係を題材にした映画の企画を進めており実際1997年に公開された映画マルタイの女 は創価学会を題材にしていた。
創〇学会関係者や後藤組組長の後藤忠政 がそれを快く思わず、後藤配下の5人が伊丹の体をつかんで銃を突きつけ屋上から飛び降りさせたと言う暴露が世に出た[15] [16] 。
また大島渚 や立川談志 など古くから伊丹十三を知る人物も、警察が死因を「自殺」と断定した後も「不倫報道ぐらいのことで、あいつは自殺しない」「飛び降り自殺は絶対に選ばない」と話し自殺を否定した[17] 。上記の経緯より、暴力団員により殺害されたと解する説もあるのである。
また、2ちゃんねるでは伊丹の死には創価学会が関与したと断定する内容が流れ、その後、情報を掲載した管理者に80万円の支払いを命じる判決が下ったが未だに創価学会の関与を疑う人間もいる。
詳細は「創〇学会#人の不審死にまつわる風説、疑惑 」を参照
なお、伊丹十三の死を知った宮本信子は立ち上がれないほど憔悴しきってしまったという。宮本信子は2002年12月20日、「感謝の会」における挨拶では「本人が決めたことですから仕方がないですけれども」[18] と語った。
映画監督への転身
1984年 、51歳で、『お葬式 』で映画監督 としてデビューし、日本国内で高い評価をうける。この作品で受賞した映画賞は、日本アカデミー賞 、芸術選奨新人賞 を始めとして30を超えた。この映画は信子の父の葬式がきっかけであり、わずか一週間でシナリオを書き上げた。この作品で伊丹はその前歴の俳優・エッセイスト・ドキュメンタリー作家・CM作家・イラストレーター・商業デザイナーとしての全ての経験が活かせる事を発見し、その後も食欲 と性欲 の未分化な人びとを喜劇的に描いた『タンポポ 』や国税局査察部・通称「マルサ」に対する徹底した取材を元にした『マルサの女 』、ヤクザ の民事介入暴力 と戦う女弁護士を描いた『ミンボーの女 』など、日本の社会に対する強い問題意識をもちながら、かつエンターテイメント性に富み、映画史 的引用や細部にこだわった映画作品を作り、一躍当時の日本を代表する映画監督となり、「伊丹映画」というブランド を築く事に成功する。
1992年 、特に『ミンボーの女 』では、ゆすり をやる暴力団 は市民が勇気を持って賢く行動すれば引き下がることを描き、観客は大喜びした。これまで日本では、映画でヤクザ(暴力団員)をヒーローとして扱い礼賛していた(「ヤクザ映画 」という一ジャンルが存在する)。公開1週間後の5月22日夜に、自宅の近くで刃物を持った5人組に襲撃され、顔や両腕などに全治三ヶ月の重傷を負うが、「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」と宣言した(病院に搬送された際に取材陣から「大丈夫ですか!?」と声をかけられて、声こそ出なかったもののピースサインで応えた)。警察は現場の車より山口組 (稲川組 )系後藤組 の犯行であることを突き止めた。5人の組員が4年から6年の懲役刑となった。
1993年 6月には自称右翼 の男が『大病人 』公開中の映画館のスクリーンを切り裂く事件が起こるなど数々の被害や脅迫 ・嫌がらせを受ける事となったが、襲撃事件により身辺警護を受けた。
1997年 、身辺警護の経験は『マルタイの女 』で映画化された。『タンポポ 』はアメリカでも配給され評判となった。
1993年 『大病人 』以後の作品は批評家 の評価が厳しいものとなり、また『マルサの女』『マルサの女2』において、登場人物(権藤)を障害者とする設定を行ったことに対して、倫理的観点から厳しい社会的批判を受けた。
演出面での特徴は、俳優に対して一言一句のアドリブも許さず、画面に映る全ての小道具に一切の妥協を許さないという厳格なものであった。しかし俳優がNG を出しても決して怒鳴り散らしたりしないため、俳優にとっては非常にやり易かったという[13] 。また『お葬式 』以降、一貫して死にこだわり続け、端役が死ぬような場面でも演出には熱がこもっていた。もともと死とは無縁なストーリーである『タンポポ 』でも狂言回し役の惨殺がクライマックスを彩っている。