《らしさ》を求めない、、 | けいのブログ

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リウマチを薬を使わないで治そうとしてます。気功、ヒーリングは体調改善にいい感じです。
子育て、夫婦、仲間、いろんな関係から自分の心クセに寄り添う日々。
ふと浮かんだ言葉をブログに綴ります、
よろしくお願いいたします

握りしめてきた様々な観念、思い込みたち、、


その中でも強いものは役割に対するイメージと期待



《~というものは~であるべき!そういうもの》


母親はこう

父親はこう

男の子はこう

女の子はこう

夫はこう

妻はこう

経営者はこう

従業員はこう

先生はこう

生徒はこう

日本人はこう

~県民はこう

~出身はこう

~歳ならこう

学校ならこう

会社ならこう

上司ならこう

新人ならこう

大人ならこう

子どもならこう

聖職者はこう

極悪人はこう



・・・・。



ある意味、キョーレツな強迫観念の刷り込み


《こういうもの》がどこか規定のように概念が


イメージングされていて《そうあるべき》に


縛られている。。



例えば。経営者は孤独だ、と昨日聞いたけど


すべての経営者に限らず、そう思い込んだ人は


孤独なものだ!と信じ決めつけた世界を観るだろう



母親は大変だ!と信じ決めつけていたら


そのような事に焦点あてて、大変な部分探しして


集めて《ほら大変なんだから!》と証明するだろう



それがこの世界の意識による仕組みらしい



私たちは知らず知らず。


統治しやすいような人間像を刷り込まれてきていて


大人しく枠に収まり。はみ出したら《制裁》恐怖で


優秀で貢献提供したなら《報奨》与えられ


《らしさ》《らしく》の中に入る思考に


浸かっていたんだ。。



これ!という決まりなんてないのに、、ね?


これ!というイメージングばかり強調された世界を


見続けてきたんだよ。。



らしさ。も、らしく。もないんだよ。。


無理やり、そうやって当てはめようとするから


本能的に苦痛に感じてもがきたくなるんだと思う



役割という曖昧なイメージも人それぞれで


《こう》の許容量は違うんだ


人が《正しさ》を追求するほど、制裁をしたがる


概念のどれいになってルサンチマンに加わっていく



自分が信じてる定義から外れたら《ボコる》思考


叩きたくなる思考。違う!と抗議する思考。。



《これはこうなの!》こだわり強くほど、、


やってる側は案外無自覚に叩くんだ。。


心理的な抑圧、強要していることに気づかない


その姿、イメージしたら《恐怖》でしかない(((^_^;)




みみっちさも、ポンコツさも、だらしなさも


汚さも、ズルさも、逃げ腰も、出し抜きも、、


そんな観たくない部分もほんとは持ってる人間



非難しているのが他人のようでいて、それは


実は自分が《隠してきた部分》だったりする


非難して制裁する姿が《正しい裁き》と信じてる



けれども。それはやるほどに自分をもキズつける


なぜなら。自分にも反応しているから



切り離せない、ドロドロしたような部分でさえも


持ってることを認められないうちは


《拒絶》した自分の部分と呼応して反応起こす為に


外側に刺激してくる人がやってくる



崇高であろう!といても、邪悪な部分が強くなる


自分にあるものを拒絶、否定しているから



イメージいい人がものすごく叩かれる現象は


その期待とズレた失望からのルサンチマン


一部分を切り取ってイメージングするのは、


マスコミがよく使う手法、、人を心理的に操作する



世界の出来事にあーだこーだ、目を向けるよりも


まずは自分が握ってる思考の偏りに気づいていこう



ほんとは全然そんな感じの人じゃないのに


自分だけが自分の観たいようにその姿を捉えて


《こんな人でしょ!と加工してる》から



イメージと違う、という意見もそう


そんな感じだと勝手に決めつけてるだけ



こんな感じの人。という概念も


こんな感じが幸せ、成功者。という定義も


ほんとは全然ずれていたりする、ものだということ



こうあるべき!というらしさが、思考が


観る目を狭くて歪ませてしまうから。。