『絶対に』という言葉で、、 | けいのブログ

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リウマチを薬を使わないで治そうとしてます。気功、ヒーリングは体調改善にいい感じです。
子育て、夫婦、仲間、いろんな関係から自分の心クセに寄り添う日々。
ふと浮かんだ言葉をブログに綴ります、
よろしくお願いいたします

この世界に『絶対』を求めるココロは


なんだろう、、?


そのココロの奥底には、放つ本人の体験、おそれが


隠されていたりする



そして。その『絶対』が適用される条件は


その発言者が信じてる世界観の中でだけ起こる


他人に放っても《無意味な言葉》




『絶対いい』と感じて勧めたものも、


感覚が違う他人が同じリアクションすることまで


求めてはおかしい



自分には『絶対』フィットしただけ


好みの違いなど、顕著に現れるよね、家族とかで


ここでしつこくごり押しするやつは嫌われやすい笑




『絶対ダメ』と言われたなら、それは放った人間の


過去のデータが弾き出したその人の価値基準



放った人間の感覚がそう感じて判断したデータは


その人間の《その時にしか》採択できない


なぜなら。永遠に変わらないものはないから


月日が経てば、変化して同じデータは適用できない



自分の中にある恐怖から相手に投げつけないように


心して言葉を向けるときはまず自分の状態に対峙して


《絶対》を投げつけないようにしようと思う



相手が心配から自分に向けて放った言葉ならなおさら


自分に向けて放たれても、自分の感覚は違うんだ


そこで怖じ気づいて怯むか、勇気出して進むか?


決めるのは、最後は自分の感覚だけ



弱気な自分に渇を入れる為に誰かにあえて


否定的な言葉を言わせて奮い立たせることもある


自分が用意した挑戦へのステージに上がる為に



『絶対』は『絶対』他人に適用できない


使うならば、自分の感覚を感じるときだけ



特に、おそれからの引き留めるための言葉が


他人から放たれた時、自分の肝だめしなんだ



安心、安定を求めてやまない思考が


不安を遠ざけたくて安全牌にいようとする判断



安心に浸る日常に馴れてしまうのが当たり前だと


挑戦することを躊躇うことも増えるかもしれない


恒常的な生活を本能的に求めてしまうからね



変わりたくない、と言いつつ、代わり映えのない


日常に飽きてしまってると《不満》が募る



自分の願望がマグマ噴出していく次のフェーズに


向かう変化ステージを用意していくんだ


絶対。と言いきれるものはない


あるとしたなら、死ぬ日をいつか迎えることだけ



何気ない1日をなんとなく過ごしながら生きる


特別になろう!とかしない


人間の価値をあげようともしない生き方


それも自分にとって心地いい《絶対》ならいい



何かの爪痕を残そう!功績を残そう!名を馳せよう!


英雄に憧れたり、インフルエンサーになろうとしたり


それも《やりたいこと》なんだったらすればいい


それも自分にとって《絶対》ならいい



やっていいとか、やってはいけない、とか


人間は概念に縛られ続けてきた思考クセが強いから


人間としてどう?とか。人間として正解?とか


誰かの基準に揺れ続ける思考に囚われやすい



小難しく考え過ぎて、身動きとれなくなっていく


その滑稽さを、神様の立場からはどう見える?



制限がある、絶対守らなくては!囚われている思考


意識のどれいになってると自分の上にルールを


置いた本末転倒な人生になってしまうということ


国が違えば《絶対》の基準さえ通じない



風の吹くまま、気の向くままに、、


そこには執着する意識である《絶対》がない



きっと先人たちは感覚でわかっていたのだろう


文字に記し規律だらけの制限世界に


自分が縛られない、飲まれない生き方の指針を



自分《が》自分《我》自分を暴走させることなく


生命エネルギーをちょうどいい塩梅に出力させて


心地よい自分だけのリズムを放ち


特別に《成し遂げて錦飾らなくても》いい


或いはしたければ《体験すれば》いい



絶対の正解なんて、ない世界に居るのだから


おかしい!と思う概念を採用する基準があるだけ


正しい!と思う概念を握ってる信念があるだけ



そんな欲望を遂げても遂げなくても


人間ができることといえば1日の中で


自分が思うことをやっていくことだけ