むかし昔から役にたたない人、モノには
《でくのぼう》とか《うつけ》とか
たくさん類語があるけれど、
人間として生まれたあとで、何らかの
社会での《求められている基準》の行動を
示せないとき、そんな言葉を投げられて
ののしられるのかもって思った
その時代時代には多少の行動基準は違うだろうけど
誰かにとって《役にたたない》と切り捨てたい人
誰かにとって《無能に思える》ような人
無意識ななかで生きてるうちに刷り込まれてきた
そんな観念は、それを言われることを忌み嫌い恐れて
《役に立とう》と自分を奮い立たせることにもなる
一方では、そのままの存在を《否定する》ことになる
役にたたない。のうなし。と陰で言われたくない
そんな気持ちから行動すると見える現実では
誰かの何かの《役に立てている》けれども
《できることが正義》のように観念もってないか?
だからできないことを恥ずかしいと勘違いして
できないことを劣等感として自分を受け入れない
社会に役立つこと=価値がある?
社会に役たたない=クズ?
自分をスパークさせながら削りながらしていたら
壊れてしまうんだよ
役にたたないって。他人に任せる領域なんだよ
他人がやる部分までがんばってしなくていいんだよ
そう教えてくれる世界ならば、
誰もが、そのままの自分でエネルギーを出せて
足りない部分を補いあえるハーモニーな世界が
やってくるんだと思う
役にたとうとムリにしなくていい。
自分をアピールしなくても充分なんだよ。
自分でエネルギーを使う意識をかえるだけ
他人の称賛、承認を得る為に行動しないことを
たぶん、根深い意識入ってた。ごくつぶしとか、笑
生きてるなら何かのエネルギーを差し出すって
強制的に恐れで思っていたんだ、、
できない、無能と、ののしられることが耐えられない
自分のピースを知って、他人のピースと融合して
それを楽しめばいいだけなんだ