無価値観と役立つこと、、 | けいのブログ

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リウマチを薬を使わないで治そうとしてます。気功、ヒーリングは体調改善にいい感じです。
子育て、夫婦、仲間、いろんな関係から自分の心クセに寄り添う日々。
ふと浮かんだ言葉をブログに綴ります、
よろしくお願いいたします

むかし昔から役にたたない人、モノには


《でくのぼう》とか《うつけ》とか


たくさん類語があるけれど、



人間として生まれたあとで、何らかの


社会での《求められている基準》の行動を


示せないとき、そんな言葉を投げられて


ののしられるのかもって思った



その時代時代には多少の行動基準は違うだろうけど


誰かにとって《役にたたない》と切り捨てたい人


誰かにとって《無能に思える》ような人



無意識ななかで生きてるうちに刷り込まれてきた


そんな観念は、それを言われることを忌み嫌い恐れて



《役に立とう》と自分を奮い立たせることにもなる


一方では、そのままの存在を《否定する》ことになる



役にたたない。のうなし。と陰で言われたくない


そんな気持ちから行動すると見える現実では


誰かの何かの《役に立てている》けれども



《できることが正義》のように観念もってないか?



だからできないことを恥ずかしいと勘違いして


できないことを劣等感として自分を受け入れない



社会に役立つこと=価値がある?


社会に役たたない=クズ?




自分をスパークさせながら削りながらしていたら


壊れてしまうんだよ



役にたたないって。他人に任せる領域なんだよ


他人がやる部分までがんばってしなくていいんだよ


そう教えてくれる世界ならば、



誰もが、そのままの自分でエネルギーを出せて


足りない部分を補いあえるハーモニーな世界が


やってくるんだと思う



役にたとうとムリにしなくていい。


自分をアピールしなくても充分なんだよ。



自分でエネルギーを使う意識をかえるだけ


他人の称賛、承認を得る為に行動しないことを


たぶん、根深い意識入ってた。ごくつぶしとか、笑



生きてるなら何かのエネルギーを差し出すって


強制的に恐れで思っていたんだ、、


できない、無能と、ののしられることが耐えられない



自分のピースを知って、他人のピースと融合して


それを楽しめばいいだけなんだ