こんにちは、桜澤愛羅です!
雨が続いたり急に晴れたり…
寒い日もあれば暖かすぎる日もあり
体調管理が大変です
だいぶ参ってます
皆さん、いかがお過ごしでしょうか?
東日本大震災から今日で13年ですね…
あの日、偶然桜澤は1人で東京にいました
amebaブログのブロガーパーティに招待され参加するため上京してたんです…
当日の朝、新幹線で…パーティ後ゆっくりしたかったので会場だったホテルの上の部屋を1泊予約して上京してました
上京して浅草の雷門見てスカイツリー(建設中)とアサヒ本社のオブジェが乗っかってるようなビルを橋の対岸から見て…
ここまでは普通の観光客
地下鉄に乗って新橋へ
地震にあったのは地下鉄新橋駅改札出た瞬間でした
立ってられないすごい揺れと永遠に続くのか!?と思うほど長い時間の揺れ、阪神淡路大震災を京都で高校生時代経験してましたが比べものにならんぐらいの別格でした
揺れが止まって恐怖で半泣きになりながらここに居たくないと思いすぐ地上へ
人々がみんな携帯で電話しててヤバいと思いまず隣家に住む父親に電話
私、生きてるから…
とだけ言いすぐ主人に電話をかけるがリダイアルしても通信状態が混乱してきてたのか繋がらない、めちゃ焦った
8回リダイアルしてやっと繋がった
地震が起こった事、今は無事である事を伝えこの電話を切るともう繋がらなくなるかもしれないと涙ながら伝えた、それぐらいもう周りは電話片手にパニック状態だった
主人はすぐ帰ってこいと言ったが新橋駅の上を見ると電車は在来線でさえ既にホームに入らない状態で停止してて…
電車はすべて止まった、もう帰れないとだけ伝えた
主人は建築職人、手を止めて電話をしてたのでいつまでも会話できないので切ると言われ電話を切った
この時の主人は東日本大震災がどのような規模の地震だったか現場での仕事中で全く知らなかった…家に帰宅しニュースを見るまでは…
桜澤、こんな状況でもパーティあるかもと思い予約してた美容室へ行きヘアセットした
その間も余震は続く
ヘアセット後新橋駅前はバスもタクシーもいない状況になってて駅前はタクシーやバスを待ち沢山の人でごった返し、余震が怖いのかビルに入れない人で溢れてて、歩道には人の流れができており乗り物を諦め歩く人もすごく多かった、ホテルまで歩く事を決めた
ちょうど目の前にコンビニがあり入ると手袋が目に入った
寒い日だったので手袋と耳当てを購入
レジは通信障害で使用できず電卓計算で対応してた
飲み物はアルコール以外全て無くなってた
土地勘が全く無くどこをどう行けばいいのかさっぱりだった
手にしてるのはホテルの予約表のコピープリントのみ
あの当時スマホは世の中に出てきたばかりでごくごく一部の人しか持っておらずめちゃ都心部じゃないとアンテナさえなかった、まだ99,8%以上ガラケー時代
コンビニ前でサラリーマンが数人円陣を組んで話してたので道を聞き、桜澤的に方角等何となく場所を教えてくれた
何となく理解して人の波に乗り歩き出した
東京タワーに行けばわかると教えてもらった
とにかく寒い日だった…手袋と耳当ては大正解だった
レディースはもう売り切れててメンズだったが残っててラッキーだった
メールの送受信が遅いながらも通信できるようで何とか家族と連絡が取れた
テレビで状況を知った父親がメールを何度も打ってくれてた
ある時間事にメールを一斉受信した、まとめて数通のメールを数10分ずつ、繋がれば一気に受信する…と言うのを繰り返した
メールで生きてる旨と今ホテルまで歩いてる事を知らせた
幸いホテルは近かった
ヘアセットが崩れるのが嫌だと思って事前に予約してた美容室は会場兼宿泊先に比較的近い駅にしてた
新橋から大きな道路に出て浜松町方面へそこから東京タワー方面へ行くと会場兼宿泊先のザ·プリンスパークタワー東京に到着
時間は45分かかった、人の波がゆっくりだったので…
ホテルチェックイン後すぐホテルの固定電話が生きてると思い部屋から桜澤両親の家へ電話し、ようやく家族に元気な声を聞かせれた
小学校から帰宅してた娘はずっと号泣してて…申し訳ない気持ちでいっぱいだった
テレビでは新宿、渋谷や新橋の混雑ぶりとコンビナート火災がニュース映像で流れておりただただ東京はパニック状態だった
そこに主人が帰宅したのか娘の泣き叫ぶ声が電話口からどんどん遠くなっていった(主人に言いに行ったみたい)
主人の何事ですか?と声が近くなり桜澤両親と少し会話後、娘のママここにいる!って声がして沈黙がありすぐに主人の声が電話に聞こえた
大丈夫か!?…と叫び声
ニュース映像で状況を把握したようだった
もう今日は帰れない
明日新幹線が動けば帰ることを知らせた
一旦パーティ会場見てくると言って電話を切り非常階段を降りて(エレベーター動いてないので)パーティ会場に行ったが中止の旨を言われお土産を渡され(他にも数人来てた)部屋に戻った
ニュースが延々と続く
東京より東北がエライことになってることがその時初めてわかった
震源地は東京だと思い込んでたから…
その間も続く余震に頭が狂いそうになる
家族に再度電話を入れ少し話し、電話代がかかるからまた連絡すると言い電話を切った
本心、余震の度に泣き叫ぶ私の声を聴かせたくなかった
その晩は化粧も落とさず、すぐ逃げれるように服も身軽な服(ジャージ)に着替えコートを着たままウトウトして…余震がある度身を固めて、一晩中地震が続くのでほとんど眠れない夜を過ごした
朝5時にホテルをチェックアウトした
荷物はチェックアウト後宅配便で送ることにしたがいつ荷物が到着するかわからないとホテル側から言われた、自分がどうなるかわからないので少しでも身軽でいたかった
しばらくホテルロビーで情報収集、地下鉄が動いてると情報を得たのですぐ芝公園駅から地下鉄に乗り大手町駅へ行って歩いて東京駅へ向かった
東京駅を選んだ理由は新幹線が動けば始発駅(東京)から乗ったほうが座席取れそう
ホテルを朝早く出たら並んでも割と早めのチケット取れて少しでも早く新幹線に乗れそうと思ったから…
自腹切ってでも帰るつもりだった(新幹線+ホテルのパッケージだった)
東京駅着いてみどりの窓口に行ったら行列ができてたがしばらく並び運良くすぐ乗れる新幹線のチケットに振り替えられた(自腹切らず済んだ)
グリーン車だったが満席だった
こんな何もない平日で満席のグリーン車は何度も新幹線に乗ってるが初めてだった
新幹線は時刻通りに動き出した
窓側の座席(富士山側)をリクエストしてた
新横浜でも恐怖があった
いつ余震で止まるかわからない状態だった
心の中でピンと張られた緊張の糸が切れたのは富士山が見て少し経った浜松通過後だった
人前だったが涙が溢れ出てきた
本当に怖かった
大津通過直前に下車準備し席を離れトイレへ行った
用を足したあと手洗いで鏡に映る自分を見たら化粧が所々落ち、目はシャドウやマスカラなどが落ちパンダ目になっててヘアセットした髪は落武者のようにボロボロだった
京都駅まで家族が迎えに来てくれた
娘は号泣だった…
両親に泣きながら謝りもう2度と東京へは行かないと話した
あれから13年…桜澤、東京に行ったら今度こそ東京にコ◯されると思ってる(あれよりもっと大きな地震来てビルが倒れて潰されるか津波が来て流されると思ってる)
あんなにピンポイントの日に地震来るか?!
あれ以来恐ろしくて東京へは行ってない(家族と一緒でも絶対に行かない)
マジ怖い
マジヤバイ
マジヤられる
東京行かんでも生きていける
無理、無理、無理、無理、無理…絶対無理!
それぐらいまだ心の傷にグッさり刺さってます
以来1人の遠出も不安と恐怖でできなくなりました…それは今でも続いてます
遠い地に1人、何かで呼ばれることはもうないですが行くことがあるなら主人と一緒に行かないと…
それぐらい1人行動、無理になりました
ホテルに預けた荷物はチェックアウト5日後着払いで無事に家に到着しました
今日は、この辺で(@^^)/~~~