乗り越えなければいけない壁 | 助産師 光マリア 幸せな毎日にありがとぅ♡

助産師 光マリア 幸せな毎日にありがとぅ♡

協力隊で2012.6-2014.6までモロッコに行ってました。
2015.9.30 晴れて好きな人と結婚♪(広島暮らし)
2018.3-2019.7 夫婦で日本一周してました。
2019.7から熊本に住んでいます。

しばらくブログをお休みしようと思ったけど、受け入れないといけない事実だし、見てくれてる人もいるから報告します。
 
でも、暗い話です。ごめんなさい。
 
昨日木曜日は同期達(村落隊員と教育隊員)の中間報告会、医療系は金曜日今日の予定でした。
 
昨日の報告会の休憩中に家族のLINEの会話を見ました。
 
ジェームスが、『お父さん死んだかも』というスタートで、またまたなにそんな冗談言ってんの?死んだってのは冗談でもいうもんじゃないよ。と、今思うとジェームスは真実を受け入れたくなかったのではないかと察するけど。
 
会話の続きを見てると長男のアベルが『今お父さんに会いました。少しでも良い霊界に行けるようにお祈してください』それでも信じられず、なんという冗談を言ってる兄弟だと思って休憩終わり。
 
報告会も終わり、17時過ぎに会話の続きを見てみると、
 
火曜日に妹の恵美理が電話で話した時も変わりなく、その日に真理子さん(パパの恋人)も電話をしていたそうです。
 
水曜日真理子さんは毎日電話してたはずなのに連絡が来ないと心配に思い
 
木曜日夜に実家に行ったところ、大量の血を吐き、泡を吹いて倒れて亡くなっていたそうです。
 
アベルも駆け付け、真理子さんとアベルで警察に連絡し、既に発見時には30時間程経っているだろうと警察に言われ、金曜日翌日に検死(CT)に出す予定だと書いていました。
 
ジェームスと電話したところ、
『お父さん死んじゃった』と泣きながら力尽きたように一言聞いて、会話が事実なんだと私自身やっと受け止めたと思います。
 
アベル、ジェームス、ママは大量に吐いた血を片付け、夜中にも関わらず私とコンタクトを取ってくれて、丁度首都の事務所にもいたので、調整員に話したところ『日本に帰りますよね?』と言われ、日本に一時帰国することになりました。
 
しかしながら、翌日の発表してから行こうと思ってたけど、よく考えたらパスポートを持っていないので、任地に一度帰らないといけないことになり、
 
その時点で19時で、21時の夜行でエルラシディアに戻り、翌朝6時に着いたあと荷物をまとめ8時半の昼便で首都に戻るとしても、着くのは金曜日夕方で、報告会も間に合わないし、その日の飛行機はないそう。
 
22日土曜の早朝の飛行機に乗り、23日日曜朝に成田に着いて御殿場へ向かう予定です。
 
その場ですぐに手続きをして下さった調整員、共感して一緒に泣いてくれた方々や話を聞いてくれた同期、抱き締めてくれて『泣いて良いよ』と言ってくれた同任地のあゆみちゃん、
 
バス乗り場まで送ってくれて、満席だったけどなんとか空席が空くまで待って送り届けてくれたトゥーレさんありがとうございます。
 
バスの中では色々な思いが頭を過って、心配をしてくれた今回帰国直前の智恵美ちゃんからメールもらったり、大家のバルカやマリーカに連絡したり。
 
往復16時間掛けて任地に戻り、飛行機で16時間、その後も成田から御殿場まで向かったら遅くなっちゃうけど、葬儀は私が戻るまで待ってるからと言ってくれた家族。色々な方々に感謝しています。
 
パパは最期幸せだと思って死ねたのか、苦しまずに死ねたのか、まだ56歳で5人の子供の誰一人結婚もしてないし、孫も見せられてないし、最後にSkypeしたのは5月の初旬で、オタクみたいな格好して踊って『恵美理が明日から東京行くぞ』と言ってました。
 
それからも、Skypeに着信はあるものの夜中でタイミングが合わず着信を取らずにいた私。
 
うちのパパはモロッコに行く以前も記事で書いたことがありますが、子供が大好きで、うちら子供がいっぱいでも、旅行に行ったり、雪山へ連れて行ってくれたり、いっぱい遊んでくれました。
小さい頃私がサンダルが脱げて横断歩道に引き返して車を見てないなかった時には、振り返ると、父親がその車を両手で抑えてくれてました。
 
はー。思い出すと泣けるけど。
 
1人で考える時間がある分だけ色んな思い出が蘇る。
 
イスラム教のトゥーレさんはお父さんが天国に行けるように子供が祈れば救われるんです。と、仰ってたので、バスの中では珍しく父のために祈りました。
 
高校になってからは、私も反抗期だったのか色々な事で父親とぶつかって、反論してました。
 
大学になってからは、距離が出来て丁度良くなったのか、親の有り難みが分かったのか私も父親も丸くはなったものの、性格が似ているせいかあって数分後には私が怒ることも多々あり。
 
でも、今の私がココにいて、幸せだと思えるのは両親がいてくれたからには間違えなく、
 
モロッコから帰った2年後には、お祖父ちゃんにだって、パパにだって好きな人との結婚式に出て欲しかったのが密かな夢だったのにこの1年で2人の親族を亡くしました。
 
パパなんて急すぎて、血を吐いて倒れて亡くなっていく姿が簡単に想像出来る反面、受け入れられてない自分がいるのも事実です。
 
バスに乗っている時に、自分がどこへ向かっているのかなにをしているのかも分からなくなる時がありました。
 
金曜日8時半のバスに向かう途中に大家のバルカに会いに行き、バルカは私が泣く前に泣きながら抱き締めてくれて私達家族にお悔やみ申し上げます言ってくれました。
 
バス停ではマリーカが軽食買ってくれて待っててくれて、マリーカも一緒に泣いて抱き締めてくれました。
 
パパの死で何人が一緒に泣いてくれたんだろう。幸せだと思います。
 
スアードや調整員の方、和樹さん、エルラシディアの配属先やお世話になってる方々からメッセージや電話をもらい首都に向かうバスの中でも泣いてばっかり。
 
でも、いつかはくるこの哀しみと、誰もが経験してるんだと思ったら1人で哀しんでる場合じゃないなと思いながら、確かにいつ来てもおかしくない人の死を受け止める覚悟も、大人になったら必要なのかも知れない。
 
まだ若過ぎる突然な死に辛さを隠しきれずにはいるけど
 
一先ず無事に日本へ帰り、パパにありがとうを伝えに行きたいと思います。