忘れる ということより
覚える ということが
多い幼少の頃は
大人の「忘れた」に
違和感と恐怖が
わくような気がする。

フレンチトーストや
ホットケーキ。
半年ぶりくらいに
作ってとお願いしたら
味の分量を忘れた
って言われて
意味がわからなかったし、
お母さんの姿をした
宇宙人なんじゃないか
ってしばらく
疑いの目を持ちながら
生活していた。



幽霊とかの怖い番組を
観た後に
お風呂やトイレや
眠るのが怖くて
どうしたら
怖いのがなくなるのか
と考えた。

大変に
恥ずかしい思いをした後
しばらくの間
思い出しては苦しくなっていて
どうしたら
苦しくなくなるのか
と考えた 。

出した答えは
忘れる ということだった。

時間がもっといっぱい経って
怖いのや苦しいの
忘れろ忘れろって
ずっと願ったりしていた。





忘れる ことが
容易になった今、
私が覚えていたいもの。

今をしっかり覚えていたい
って熱心に思うけど、
覚えていたいというよりは、
今に居たいと言う方が正しいのだと思う。


脳みそは偉大。

手を繋ぐとは
重要なことだ。


手を出されても
繋げなかった。
繋いでいても
離れていた。


それは悲しい。





自分で身を持って
わかってるから、
人の気持ちの
奥底なんて信じてない。



ワタシはいつか心から、芯から、真から、誰かと愛し合えるのかなぁ。それは絶望。



きゅうと抱きしめたい。

満月。


38万4400km。

寝ずに歩いたら
11年でたどり着けるかなぁ。


曇り空について
そう云って居た。


悲しみとか苦しいとか
そんな誰だって持ってる。
みんな寂しい。
みんな辛い。
でも自分の痛みのものさししか持ってない。
それは悪いことじゃなくて
感じられるのがその範囲なんだもの、しょうがない。
人の痛みを解ったと思っても解ってないよ、それは。


嘘みたいにきれいな空をみて
「美しい」と呟く。
非日常だから美しいと愛すなよ、と言われても、それはキミがそうとしているだけだろう。
日常は常に愛してるから中に居るのである。非日常は結局非日常なので客観視できるのである。
トイカメラのような非日常は非日常だから作品なのである。
或意味、冷たいか。
好きに言え。
そして言わせろ。
私の価値観である。
てめぇの価値観はてめぇで持ってろ。



怒って居る。
そして絶望した。
何より自分に。

絶望しきれば、或意味希望。
なぜなら、今まで在った概念に縛られないからである。


開き直っている
のかも知れない。
知れない。
知れない。
知りたくもない。



今朝までの私が
アポトーシスした。

今日は昨日とは
きっと違うんだ。


いつか私自身が
音や体温や空気の中で
アポトーシスすることを
願って居る 。