小説・愛の螺旋

最初から読みたい方は目次 へどうぞ。登場人物の一覧はこちら

Amebaでブログを始めよう!

020

「千尋先輩、本当に来るんですか?」
「何?私を疑うの?」
「あっ、違います。ただ、信じられなくて……」

千尋は隣の席に座る美和と会話をしながら、
矢野と葵を待っていた。
すでに店へ入ってから30分は経過している。
さすがに美和も、疑いを持ち始めたようだ。
強気の発言をした千尋も、少々自身が無くなってくる。

「だって、あの矢野主任が葵さんを連れて来るなんて、
やっぱり信じられないっていうか…。
矢野主任ってお酒飲むんですね」

美和は自分の前に置いてあるカルーアミルクを
手に取り、一口すすって元の場所に戻す。
それに合わせるように、千尋もフャジーネーブルを口に運んだ。

先程からこんな動作を繰り返している。
本当に来て来れるのかとソワソワしている美和と、
約束を破られたのではないかとイライラしている千尋は、
テーブルに置かれている飲み物を飲んでは、
店の入口にチラチラと視線を送ることしか出来ない。

「でも、千尋先輩。どうやって矢野主任に頼んだんですか?
それに、よく矢野主任がOKしましたね」
「それはねぇ……」

千尋が矢野の弱みに付け込んだからである。
しかも、飲みに誘ったというよりは、
強制的に飲みの会を作ったと言ったほうが正しい。

「……私の魅力?」

しかし千尋は、今回の矢野との飲み会の経緯を
美和には伏せていたため、適当な言葉で誤魔化す。
これは矢野の弱みを掴んだからこそ出来た飲みの席だ。
そんな美味しい情報を、例え可愛い後輩であっても教えることは出来ない。
一人で弱みを握っているからこそ、
これからも活用できるというものだ。
それに、一緒の部署で働いている部下に言うのは、
さすがの千尋にも気が咎めた。
どうやら美和は、昨夜の公園で矢野と葵に
会ったことを覚えていないらしいのだ。
これは会議が終わってから美和に会いに行った時に確認済みである。

「千尋先輩って凄いんですね。
私なんて未だに矢野主任と話す時、緊張するのに」

千尋の冗談を真面目に受け取った舞子は、
千尋に感心しながらもため息を吐き出した。

「矢野主任って、そんなに恐い?」
「うーん、恐いっていうわけではないんですけど…」
「近寄りがたい?」
「…は、はい。何を考えてるのか分からないというか……」

美和は躊躇しながらも、千尋の言葉に頷いてみせる。
確かに、今朝までは千尋も美和と同じように
矢野を近寄りがたい存在だと認識していた。
職場の多数が、美和と同じ気持ちであろう。
それが今では矢野の弱みを握り、立場は千尋の方が有利なのだ。
千尋はある種の優越感を噛み締めながら、
グラスに残っているファジーネーブルを飲み干した。
千尋がグラスをテーブルに置くと、
突然美和が小さく悲鳴を上げる。

「き、来た。千尋先輩っ」

その声にドアの入口へ顔を向けた千尋も、
仏頂面の矢野と、相変わらずにこやかにしている葵を見つけた。

「遅いっちゅうの」

to be continued ……

019

「じゃあ、お願いしますよ」

矢野へ念を押した後、千尋は意気揚々と会議室を後にした。

千尋は廊下へ出た途端、小さくガッツポーズを決める。
まさか、これほどまでに事が上手く進むとは思っていなかった。
これで美和と葵を引き合わせる作戦が成功したも同然だ。
なんと後輩思いの先輩なんだろうか。
自分の雄姿を自分で誉め上げる千尋は、
軽やかな足取りで開発部へ向かう。
すぐにでも美和へ報告せねば。
美和の喜ぶ顔が目に見えるようだった。

まるで一仕事終えたような爽快な気分の千尋だったが、
次の瞬間には、その爽快な気分が吹き飛んでしまう。

バンッ

突然、千尋の目の前のドアが勢い良く開き、
身構える間も与えられなかった千尋は、
顔面にドアが直撃してしまう。

「ぎゃっ…」
「すっ…、すいませんっ」

ドアから出てきた人物は、千尋に謝りはするが
未だに顔を押さえている千尋を気遣うこともなく、
慌てた様子で廊下を走り差って行った。
声からして男性のようだったが、
目の前がチカチカしている千尋には、
誰が立ち去ったのかは見ることができない。

「にゃろう…、ちゃんと謝りやがれ……」

千尋は悔しそうに呟くと、視界が回復するのをその場でじっと待った。
ところが、千尋がその場で立ち止まっていると、
更に千尋の顔面にドアが直撃する。

「……っ!」
「あら、ごめんなさい…、って千尋ちゃんじゃない。
どうしたの?そんな所で立ち止まって」
「ま、舞子先輩?」

千尋は顔面を手で押さえながらも、
指の間から舞子へ視線を向けた。
涙目のために視界はぼやけていたが、
確かにドアから出てきた人物は舞子である。

「大丈夫…じゃないです。鼻がモゲそう」
「あら、やだ。ちょっと見せてみて。
……鼻が赤くなってるわね」

千尋が顔から手を退けると、まるで酔っ払っている
ように真っ赤な千尋の鼻があらわれる。
しかし舞子は追い打ちを掛けるように、
千尋の鼻を遠慮なく摘んだ。

「いっ、何するんですかっ」
「鼻は折れてないみたいよ。大丈夫」

痛がる千尋へ、舞子はにっこりと微笑む。
千尋を真剣に気遣っているのか、
それとも冗談なのか分からない舞子の行動に、
千尋は舞子を恨めしそうに見つめることしか出来ない。
そして千尋は鼻を押さえながらも話題を変えた。

「ところで舞子先輩、何でこんなところに?」

千尋が顔面を直撃したドアは、資料室として使われている。
業務開始前の資料室に、いったい
何の用事があるというのだろうか。
しかも、先程千尋に負傷を与えたにもかかわらず
慌てて立ち去った男性も気になる千尋だった。

「えぇ?仕事に決まってるじゃない」
「……どんな仕事だか」

舞子の答えに、千尋はため息を吐き出した。
余裕の表情でほほ笑みを浮かべる舞子に、
千尋はこの資料室で何があったのかを察する。

「本当にもう。あんまり無茶しないでくださいよ」
「無茶って何が?」

千尋が舞子を咎めると、舞子は
分からないとでも言うように首を傾げた。
そんな舞子に、千尋は更に深いため息を吐き出す。

「こんなことして、会社中で噂になったらどうするんですか?」
「大丈夫よ。その辺りはちゃんと念を押してるから」
「でも、旦那さんの耳に入ったら……」
「それも大丈夫。うちの旦那、放任主義だから」
「………」

放任主義の定義を吐き違えている。
そんな突っ込みを心の中で思い浮べる千尋だったが、
これ以上何を言っても舞子は聞かないだろうと諦めた。

「会議終わったのね。お疲れさま」

千尋が無言になると、舞子は
髪をかきあげながら話題を変える。

「何か重要なことでも決まった?」
「そうですね。上席連中にとっては……。
あっ、それよりも重要な報告が」


千尋は言いながら、先程会議室での
矢野との取り引きを思い出す。
千尋は舞子へニヤリと笑みを浮かべ、口を開いた。

「実はさっき……」

to be continued ……

018

「何だか話が噛み合わないな…」

矢野は一旦言葉を切り、アゴに指を添える。
その動作に合わせるように、千尋も難しい顔をして
腕を組んだが、心の中で胸を撫で下ろしていた。
どうやら話の内容は、千尋の態度についてではなかったらしい。

「俺…、いや私が言いたいのは……」

千尋が一人ほっと胸を撫で下ろしていると、矢野が話を進める。
矢野は言いながら眼鏡を掛け直し、意を決したように呟いた。

「え……っと、昨夜の件は黙っててくれないか?」
「昨日の件と言いますと?」
「だから、その……、昨日俺、私が酔っ払って……」
「公園でだらしなく泥酔していたことを?」

矢野の言葉を引き継ぐように、千尋は質問する。
どうやら図星だったようで、矢野は苦い顔をしながらも頷いた。

「何故ですか?」
「何故って……」

千尋は疑問を口にしながら、実は矢野の
言いたいことを理解していた。
職場での矢野のイメージは、冷静かつ無表情である。
何事が起きても微動だにしせず、
眉間にシワを寄せているのが矢野だった。
泥酔した矢野など、職場の誰もが想像できないだろう。
その矢野を偶然にも見てしまった自分を
口止めしたい気持ちも、今の千尋には理解できる。
しかし、疑問をあえて口にするのには理由があった。

「その……なんだ、仕事をする上で色々と……な」

差し支えがあると口にする矢野は、眉間にシワを寄せて千尋を睨む。
それ以上聞くなと言うことだろう。
いつもの千尋であれば、この表情に怯むであろうが、
しかし千尋は今までの千尋ではない。

「矢野主任のおっしゃることは分かりました。
でも…、黙ってられるかなぁ。私、口が軽いし……」
「おいっ、お前っ……」
「頼みたいことがあるんですけど」

慌てる矢野へニヤリと笑いながら、
千尋は自分の要求を口にした。

「葵さんと飲みに行きたいんですけど」

千尋は言った後、満面の笑みを浮かべる。
この要求に矢野は従わざるを得ないだろう。
こちらは矢野の弱みを握っているのだ。
しかも、仲の良い葵との飲みの席を設けることなど、
矢野にとっては朝飯前である。

してやったり。
そんなことを考えていた千尋だったが、
しかし矢野は千尋が思いも寄らない答えを導き出した。

「お前……、葵に惚れたか?」
「はぁ!?何言って……」

矢野の言葉に、千尋は思わず素っ頓狂な声を上げる。
だが、すぐに冷静さを取り戻した千尋は
一旦咳払いをしてから言葉を続けた。

「どうでも良いじゃないですか、そんなこと。
とにかく、頼みましたからね」
「俺と取り引きしようってことか?」
「どうとでも思ってください」

まさか美和が葵に惚れていると言う訳にもいかず、
千尋は適当にごまかす。

「さすが小柳さんだね。こんな時に取り引きかよ」

矢野は呆れたようにため息を吐き出した。
何が“さすが”なのかいまいち分からない
千尋だったが、矢野が感心しているようなので、
余裕の表情で矢野へ笑って見せる。
すると矢野は苦笑しながら頷いた。

「分かったよ。今日で良いのか?」
「もちろん。私も一人連れて行くんで」
「誰だよ?」
「すっごく可愛い子」

to be continued ……

017

「何か?」

精一杯の笑顔を浮かべた千尋だったが、
内心は何を言われるのかとハラハラしていた。
きっと昨日のトラブル時のことだろう。
千尋は開発部に乗り込み、システム復旧の為に
かなり傍若無人な態度を取っていた。
改めて昨日のことを思い出すと、
態度について咎められても不思議ではない。

千尋が昨日のことを思い出いだしながら
言い訳を考えていると、葵が静かな口調で言った。

「俺はいなくても良いよな?」
「……あぁ」

葵の言葉に、矢野は仏頂面で答える。
あきらかに不機嫌な矢野の態度に、千尋は葵が残ってくれることを
強く希望したが、その願いは受け入れられることは無かった。

「じゃあ、ごゆっくり。よく話し合うんだな」
「早く行け」

葵が矢野へ冗談めかした言葉を掛けると、
矢野は更に眉間のシワを深くさせ、早く行けと手であしらう。
そんな矢野の態度にもにこやかに頷いた葵は、
千尋へも笑顔で頷きながら会議室を出ていった。


「………」

葵が部屋を去ってからしばらく、会議室に沈黙が流れる。
しかし千尋は何も言えなかった。
その沈黙がまるで死の宣告を待っている
受刑者のようにも感じられたのだ。
もしやこのままクビにでもされるのではないかと
千尋は矢野の顔をチラリと伺う。

「昨日のことだが……」

千尋と目の合った矢野は、苦い顔をしながら口を開いた。
しかし言葉を止めると、そのまま黙り込んでしまう。

「昨日のこと……ですか?」

千尋は言いながら、やはり矢野は昨日のことを咎められるのだと身構えた。
そして頭の中で必死に言い訳を考え始める。

もとから千尋は言い訳を考えるのは得意なほうだ。
顧客のクレームを処理する仕事をしていると、口だけは上手くなっていく。
ところが、今の千尋には何のアイデアも頭に浮かんでこない。
咎められても、だったらシステム開発しているあんた達が
トラブルにならないようにしなさいよ、と逆切れしてしまいそうだ。
そんなことを言ったら直ちに地獄行きになるであろう。
だったら素直に謝るのが得策だ。

「昨日は出すぎた真似をしてすいませんでした……」
「……昨夜のことなんだけど、黙っててくれるか?」

千尋が口を開いたと同時に、矢野も喋り始める。
そしてお互いに相手の言葉を頭の中で復唱すると、またもや同時に口を開いた。

「は?」
「ん?」

お互い見つめ合い、相手の言わんとしている内容を推測するが、
論点がズレていることに気付くのには、そう長い時間は掛からなかった。

「昨日の夜のことって何ですか?」
「何で小柳さんが謝るんだ?」

to be continued ……

016

「では、今後システム開発については矢野主任と葵副主任が
全権限と責任を持つということで依存はないですね?」

会議室に議長の声だけが響いた。
その声に反応するものは一人もおらず、
しばらく経った後、議長が低い声で言葉を続ける。

「では、異論が無いようですので決定します」

議長が会議の終了を告げ、それと同時に開発部の部長が
無言で席を立ち上がり、勢い良く会議室を出ていった。
それに続き、開発部の副部長、営業部の部長が出ていく。

「大変なことになったね」

次々に部屋を後にする部長たちを他人事のように眺めている千尋だったが、
隣に座っている小寺の呟きに、その重大さを改めて気付かされる。

早朝会議の内容は、このところ続いていたシステムのトラブル対策であり、
今後トラブルをいかに減少させるかが議題だった。
まず最初に責任問題の話になり、開発部長に話の矛先が向き、
それに乗るように、矢野と葵が現在の部長の地位をかすめ取っていったのである。
まるでドラマを見ているような展開に、千尋は頭が追い付いてなかった。

「大変なことって…何がですか?」

千尋が他人事のような口調で疑問を口にすると、
隣に座っている小寺が声をひそめて説明を始める。

「考えてもみろよ。部長は今まで部下だった
矢野主任と葵くんに指示されるんだぞ?
部長の気持ちを察すると……」
「良いじゃないですか。それでトラブルが無くなるんなら。
こっちの仕事も楽になるなら大歓迎です」
「問題はそこじゃない。矢野と葵が部長を否定したんだぞ?
これで部長が黙っているとは思えない」
「これから一悶着あるってことですか?」
「たぶんね」

小寺の話を聞いた千尋は、内心ため息を吐き出した。
どうして男の世界ではこんなややこしいことをするのだろうか。
仕事が円滑に進めば役職だろうが立場は関係ないと思うのに。
などと考える千尋だったが、仕事の世界がそうではないことも知っていた。

「まっ、私には関係ないですけどね」
「俺には関係ある」
「そうですね、小寺主任。私たちの部署が巻き込まれないように
頑張ってくださいよ?期待してますから」
「そんなこと言わないでよ…」

千尋が冷ややかな態度で答えると、小寺は悲しそうに呟いた。
千尋の上司である小寺は、何かにつけて弱腰である。
現在もすがるような目付きで自分を見つめる小寺に、
どちらが上司なのかと諭したい気持ちに駆られる千尋だった。

「他部署と連携を取るのも主任の仕事です」
「だけど、そういうのは小柳さんの方が上手いでしょ?」
「それとこれとは話が別ですよ」
「そんなこと言わないでよぉ…」

千尋がきっぱりと断ると、またもや小寺は悲しそうに呟く。
しかし千尋が小寺の願いを聞き入れる訳はない。
千尋がどうにか小寺を言い包めようと言葉を探していたが、
突然呼び掛けられたことで思考は停止してしまった。

「小柳さん、少し良いかな?」

千尋が声の方へ顔を向けると、矢野と葵が
二人並んで自分を見つめていることに気付く。
にこやかな笑顔で手招きをしている葵と、
鋭い目付きでこちらを睨み付けている矢野と目が合った。
矢野の険しい表情にただならぬ雰囲気を感じ取った千尋は、
助けを求めようと小寺へ顔を戻す。
しかし小寺も矢野のただならぬ雰囲気を
敏感に察知したのか、慌てて席を立ち上がる。

「あっ、小柳さんとお話があるんですね。
では僕は失礼します。ごゆっくり」

言うが早いか、小寺は早々に会議室から退散してしまう。
そんな小寺を茫然と見送った千尋は、会議室に矢野と葵、
そして自分の三人しか居ないことに初めて気付く。
小寺を心の中で一通り罵倒した後、
千尋は逃れられないことを諦め、矢野と葵へ笑顔で答えた。

「何か?」

to be continued ……

015

「はぁ…、悲しいな……」
「何が悲しいの?」

ため息を吐き出した千尋の背後から、突然声を掛けられる。
その声にビクリと身を固めた千尋は、
その声の主に振り返った。
「舞子先輩……、驚かせないでくださいよ」
「だって、さっきから一人でブツブツ言ってるから。
いつ声を掛けて良いんだか分からなかったのよ」

舞子はクスクス笑いながら千尋の隣に並ぶ。
そして悪怯れる様子もなく、言葉を続けた。

「何?悩み事?」
「悩み事ってことはないんですが。…それより昨日、
あの後大変だったんですからね」

千尋は恨めしそうな表情を浮かべながら、昨日、
舞子が帰ってしまった後のことを話して聞かせる。
何故か葵に言われた言葉は黙っておこうと
自然に考える千尋だったが、それ以外は全て報告した。

「可愛い後輩二人を置き去りってひどいですよ」
「それよりも公園の後、どうしたの?」
「え?私は美和ちゃん連れてタクシーで帰りましたよ。
矢野主任と葵さんがどうなったのかは知りませんが」
千尋の恨み言を軽く交わした舞子は、
話題を切り替えて千尋に質問する。
そんな舞子に少しむっとする千尋だったが、
正直に舞子の質問に答える千尋だった。

「千尋ちゃん。まだまたね…」

千尋が答えると、舞子はため息を吐きながら首を振る。
しかし舞子の考えがこの時点では理解できない千尋は、
首を傾げながら疑問を口にした。

「何がですか?」
「私だったらお持ち帰りするわ」
「…一応聞いておきますが、どっちを?」
「そんなの決まってるじゃない。自分が気に入ったほうを、よ」

当たり前のように答える舞子に、千尋はそれ以上言葉を続けられなかった。
しかし舞子だったらやりかねない行動だと考え、
千尋は否定も肯定も出来ないのだ。

「ところで千尋ちゃん。こんなに朝早く出社なんて珍しいわね」
「昨日のトラブルの件、実はまだまとめてないんです」

話題が変わったことに胸を撫で下ろした千尋は、
苦笑しながら説明する。
昨日発生したトラブルはすぐに復旧したため、
深刻な問題には発展しなかった。
というのが表向きな発表で、取引先にはそのように通知している。
しかし実のところはかなり申告らしく、
急遽、各部署の責任者が早朝会議に出席しなくてはならなくなった。
千尋もその中の一員として、いつもより早く出勤している。

「ところで舞子先輩も早くないですか?」

舞子は社長秘書であり、早朝会議のメンバーではないことは一目瞭然だ。
にもかかわらず、この時間に舞子が出勤するには時間が早い。
そんな疑問を浮かべる千尋に、舞子は含み笑いを浮かべながら答える。

「ちょっとね……」

その余裕たっぷりのほほ笑みに、千尋は自然と
それ以上はその話に触れてはいけない雰囲気を察知した。
そして、たわいもない話を続けながら、
千尋は先ほどの舞子の言葉を頭の中で復唱する。

そんなの決まってるじゃない。自分が気に入ったほうを、よ

もしも自分がお持ち帰りするとしたら、
いったいどちらを選んでいたのか。
しかし千尋はこの時、どんなに悩んでも答えが出ることはなかった。

to be continued ……

014

「あれは何だったんだ?」

千尋は一人で呟きながら、丸ノ内の大通りを歩いていた。
通勤時間にはまだ早いらしく、人通りはまばらである。

昨日の夜、千尋は酔っ払ってしまった美和を介抱しようと、
銀座の公園に連れていった。
そこで美和と同じように酔っ払っていた
矢野を介抱していた葵と偶然にも出会った。

「あの言葉の意味って、……何?」

最初はヘラヘラと笑っているだけの印象があった葵だが
話していくうちに同僚思いの男だと感心した。
そして葵という男を少しだけ理解できたと思ったのだ。
その一瞬だけは。
その後に葵が見せた表情に、千尋はまたもや葵が理解できなくなった。

二人だけの…ね。

そう言って、葵が千尋に見せた表情は表現のしようがない。
真面目な表情の中にも、どこか優しさが交じり、
しかし次の瞬間には千尋を食い入るような目で見つめていた。
その瞬間、千尋は顔が赤くなったのを覚えている。

あの目付きはなんだったのだろうか。
皆と別れた後も、千尋は葵の顔が忘れられなかった。
そしてその顔を思い出すたびに、千尋は動悸が激しくなるのだ。
それはつまり、葵のことを…

「いや……、いやいやいやいや。それはない」

千尋は自分が思い付いた結論に、
首を振りながら大慌てで否定する。
万が一そんなことになってしまったら、
葵へ好意を寄せている美和に合わせる顔がなかった。
そして、きっと美和を嫉妬してしまうだろう。

美和は誰の目から見ても可愛い。
美和から告白されれば、すべての男がYESと答える筈だ。
そんな美和と一人の男を取り合うなど、
初めから結果が分かっている千尋はしない。

なんだか気分が悪い。
昨夜はさほど酒を飲んでいない筈なのに、
家に帰った後も、何かが胸に引っ掛かっているような感じだった。

「葵の野郎…、意味不明なこと言いやがって…」

千尋はその胸の引っ掛かりが、昨夜の葵の言葉によるものだと理解していた。
千尋は本来、自分が疑問に思ったことはその場で解決する主義だ。
そうしないと、寝付きが悪いことを経験上知っている。
昨夜は葵の発言を確かめることもなく寝てしまったため、
寝付きも悪いし、寝起きも悪かった。
悶々とした足取りで歩き続ける千尋に、
ふとある思い付きが起こる。

「まさか……、私に惚れたとか………?」

口に出した途端、千尋はその考えを否定した。

「まさか…ね、あは…、あはは………」

千尋は自嘲した笑いを浮かべながら、
自分の馬鹿な考えを頭から追い出す。
自分で口にしながら、それだけはないと分かり切っていた。
自分には女としての魅力が、どんなにひいき目に見ても無いに等しい。
そんな自分が会って間もない男に惚れられるわけないと
千尋は頭をかきながらため息を吐き出した。

to be continued ……

013

「驚きましたよ。だって矢野主任、職場と雰囲気違うんですもん。
最初、吐いてるのが矢野主任って気付きませんでした」

千尋は激しくなる動悸を無視するように、早口で言った。
その為に、千尋は矢野の話題を続ける。
実際、矢野がここまで泥酔するとは夢にも思わなかった千尋だ。
きっと職場の人にこのことを言っても、半分以上が信じないだろう。

「職場ではいっつも、こーんな顔して人に命令してるんですよ。
『プログラムの納期は迫ってるぞ、早くしろ』って。…あ」

千尋は指で両目を釣り上げ、矢野の声色を真似した低い声を出した。
しかし言った後で、千尋は猛烈に後悔する。

「あっ、今私が言ったこと、矢野主任には言わないでくださいよ。
矢野主任の耳に入ったら……、あはっ…、あはは……」

千尋は両目から指を離し、葵に向かって巻くし立てる。
千尋はこの時、何を喋っているのか半分以上分からなかった。
ただただ焦っている自分を落ち着けようと、
最後は笑って誤魔化すことしかできない。

「ははは……、はぁ……」

乾いた笑いでその場を切り抜けようとしたのだが、
口の端が痙攣していることに気付いた千尋は、
諦めたようにため息を吐き出した。
そこで、ふとしたことに気付くのだ。
何故、私は一人で浮き足立っているのたろうか、と。
それに比べて葵といえば、先程から変わらぬほほ笑みを浮かべている。
自分一人で突っ走っていたことが滑稽にさえ思えてきた。
その思いに行き着いた千尋は、突然葵に腹立たしさを覚え
美和がうなだれている隣に腰を掛ける。

「言いませんよ」

千尋がベンチに腰を落ち着けると、
葵はゆっくりと口を開き、言葉を続ける。

「私の知っている矢野は小柳さんの言う矢野とは違いますが、
小柳さんがそう思うのは、矢野自身がそうなりたいと望んだ結果でしょう。
もしも矢野の耳に入ったとしても、矢野は喜ぶと思いますよ」

「えっ、そうなんですか?」

千尋は腹を立てているのも忘れ、葵の話へ食い付いた。
葵の言葉が信じられないと言った表情を浮かべ、葵を見つめる。
すると葵は千尋へほほ笑み、言葉を続けた。

「矢野は昔、人をまとめるのが苦手だったんです。
主任に抜擢された時も、受けようかどうか相当迷っていましたよ…」
「…でも、結局主任になったんですよね?」

いったん言葉を切った葵の言葉を引き継ぐように、千尋は疑問を口にする。
千尋の知っている矢野は、沈着冷静だった。
例え目の前で殺人事件が起きようが、
眉一つ動かさずにじっとしている矢野が容易に想像できる。
まさに鉄仮面の男。
それが千尋の知る矢野像なのだ。

「ええ。矢野は悩んだ末、主任になることを決めました。
ただ、そのとき矢野は自分を少し変えたんです。
部下をまとめるために、こーんな顔をして命令しようって…」

葵は言いながら、自分の両目を指で持ち上げた。
先程の千尋とまるで同じ行動を取る葵に、
千尋は思わずぷっと笑ってしまう。

「それから私が言ったこと、矢野には内緒ですよ?
矢野に知れたら『俺の築いたイメージを』って怒られますから」

葵は引き続き、先ほどの千尋の言葉を引用した。
両目から指を離し、人差し指を口に当てながら真面目な表情を浮かべる。
それに習い、千尋も人差し指を口に当てた。

「もちろん内緒です」

千尋は言いながら、クスクスと笑い始める。
最初はヘラヘラと笑っているだけの男かと思った
葵だったが、案外と冗談も言えるようだ。
しかも矢野のことをきちんと理解している同僚思いである。
千尋は突如葵と打ち解けられたような気分になり、
ほっと案著のため息を吐き出した。

「二人だけの秘密です」
「え……?」

千尋は葵の言葉をきちんと聞き取れず、
笑いながら葵へ顔を向ける。
しかし葵の顔を見た途端、千尋は息を止めた。

「二人だけの……ね」

葵は先程と表情を変え、千尋を見つめていた。
その表情からは何を考えているのか読み取ることは出来なかったが、
千尋は確かに自分の顔が赤くなるのを感じていた。

to be continued ……

012

「買ってきましたよ」
「ありがとうございます。ほら、美和ちゃん。これ飲んで」

千尋は葵から受け取った烏龍茶のペットボトルを、
ベンチでぐったりしている美和へ渡した。
美和の隣には矢野が座っており、
美和同様、ぐったりとしながらうなだれている。

先程、この公園で偶然鉢合わせになった矢野は、葵と二人で
千尋達と同様、今まで銀座で飲んでいたらしい。
そして、泥酔してしまった矢野をこの公園まで運んだところに、
偶然、千尋と美和が表れたというのだ。
矢野と美和は見事に泥酔しており、嘔吐するわ、動けないわで、
少しの間この場所から離れられそうになかった。
そんな二人に気を使ってか、葵は先程近くのコンビニで飲み物を買ってきてくれたのだ。

「健、お前もこれ飲め。楽になるぞ」
「お…ぉ……」

言いながら、矢野へ烏龍茶のペットボトルを渡す。

その様子を眺めていた千尋は、矢野と葵の仲の良さを実感した。
葵は矢野のことを下の名で呼んでいるし、
何よりそう思わせるのは、いつも冷淡な表情で部下をまとめ上げている矢野が、
葵の前では別人のように酔っ払った表情を見せている。
千尋は矢野を懸命に介抱している葵の横顔を、ここぞとばかりに盗み見た。

顔は中の中といったところか。
不細工な訳でもないが、格好良い訳でもない。
いったい美和は、葵のどこに惚れたのだろうかと首を捻りたくなる。
会ったばかりの千尋には葵の性格を知る由もないが、
矢野を親身に介抱する姿を見る限りだと、性格は良いのだろう。
そして、午前中に発生したトラブルを容易く解決したことを考えれば、
仕事もかなり出来るに違いない。
しかし、それは今日知った葵像で、
異動初日に美和が惚れた理由とは考えがたいだろう。
千尋は葵を見つめながら、その理由を探った。

ところが千尋は次の瞬間、美和の惚れる理由を知ることになる。
葵は矢野から視線を外すと、千尋へ向かって微笑んだ。
その表情はどこか憂いを含んでおり、
見る者を引き寄せる雰囲気を醸し出している。
きっと美和はこのほほ笑みに惹かれたに違いない。
そんなことを思いながら、千尋は葵のほほ笑みを見つめていた。

「…千尋さん」
「はぇ…?」

千尋が葵のほほ笑みを見つめていると、葵が話し掛けてきた。
突然のことに、千尋は上ずった声を出してしまう。
上ずった声に千尋自身が一番驚いてしまうのだが、
それを悟られないよう、咳払いをしながら誤魔化した。

「すいません、下のお名前しか知らないもので。
今日、午前中にお会いしましたよね?葵春人です」

突然、葵は自己紹介を始める。
思えば千尋は、きちんとした挨拶を葵と済ませていなかった。
システムトラブルで開発部へ乗り込んだとき葵はきちんと自己紹介していたが、
自分は今まで葵に名乗っていなかったのを千尋は思い出す。

「コールセンターでスーパバイザーしている小柳千尋です。
今日はありがとうございました」

千尋は営業スマイルたっぷりに、葵へ向かって作り笑いを浮かべた。
葵のほほ笑みを見ていると、どうも調子が狂う。
葵のペースに巻き込まれないよう、
千尋は自分が主導権を握ろうと口を開いた。

「葵さんって、矢野主任と仲が良いんですね」
「ええ、矢野とは同期入社なもので」

葵はにこやかに答えながら言葉を続ける。

「一緒に働いていた時は、よく飲んでいたんですよ。
こいつ、あの時からまったく変わってないですね。安心しました」

葵はベンチでうなだれている矢野を見つめ、苦笑した。
懐かしい過去を思い出しているのか、葵は目を細めている。
その表情がまた憂いを含んでおり、千尋をドキリとさせた。

to be continued ……

011

「美和ちゃん、ちゃんと歩いてよ…」
「先輩~、もう飲めませんよ~…」
「分かってるって」

千尋は美和の肩を持ち、銀座通りをヨロヨロと歩いていた。
美和は泥酔しきった様子で、足元がおぼつかない。

「舞子先輩…、恨みます…」

千尋は一人ごちると、肩からズレ落ちそうなカバンを背負い直した。

今日は本当にツイていない。
朝から会社で発生したトラブルでは、激怒する顧客に謝り倒し、
遅れてやってきたバーでは、酔っ払った後輩を先輩が置き去りにする。
取り残された千尋は今まで、イザベルに過去の恋愛話を聞かせされ、
逃げるようにスパイラルを出たは良いが、
泥酔した美和を置き去りにするわけにもいかず、
美和を抱えて銀座通りを歩いている。

自分の不幸を呪うように、千尋は大きくため息を吐き出した。
だが、もう少しでタクシーを拾える場所へ到着する。
あともう少し、そんな言葉を自分に投げ掛け、
千尋は力を振り絞りながら足を前へ運んでいた。

「先輩…、吐きそう…」
「えっ!?ちょっと待った。まだ吐かないで!」

千尋は美和の呻きに顔を上げ、美和の顔を覗き込む。
美和の顔は青ざめており、すがる様な目つきで千尋を見ていた。
どうやら既に限界のようだ。
美和は口を手で押さえ、今にも吐き出すのではないかといった様子である。

「わっ、分かった、あそこまで頑張って。お願いだから」

千尋は道の脇にある公園を見つけると、そこまで美和を引っ張っていった。

公園へ入ると、今までの銀座の賑わいが一変、突如として静寂が訪れる。
公園内には水のみ場とブランコが二つ、ベンチが二脚あるだけという
簡単な作りになっており、形だけの公園という印象が見て取れた。

千尋は美和を抱き抱え、公園内にある水のみ場へ向かう。

「もうちょっとの辛抱だからね」
「はぃ……」


今にも吐き出しそうな美和に声を掛け、水飲み場まで急ぐ。
ここだったら人にも迷惑が掛からないし、後の介抱も楽になる。

「…ゃ…ぇ……っ…」

しかし千尋が水飲み場へ近づくにつれ、男の声が聞こえてきた。
どうやら先約がいたようだ。
その声に気付いた千尋は、躊躇しながら立ち止まる。
水飲み場にいる人物の顔が、千尋の立っている場所からは分からなかった。
もしもその人物に絡まれでもしたら、その場を乗り切るのは困難だと感じてしまう。
自分一人だったら上手く逃げる自信はあったが、
千尋の隣には泥酔状態の美和がいるのだ。
しかし、美和の顔はすでに青く、吐く準備は万端のようだ。
どうしようかと千尋がその場で立ち止まっていると、
突然、水飲み場から顔がひょっこり現れる。
その顔を見た千尋は、思わず声を上げた。

「…何でこんなところにいるんですか?」

安著と驚きの表情を浮かべた千尋は、驚きながらもその人物へ近づいて行く。
絡まれる心配はこれで無くなったと、安心して美和を吐かせることができる。
何故この男がこの場にいるのか分からない千尋だったが、
水飲み場にもう一人、うずくまる人物に気付いた千尋は、
その場で足を止め、信じられないといった表情を浮かべた。

「…矢野主任?」

to be continued ……