嫌々でも諦めることで受け入れた事 | 夢を殺す

夢を殺す

もし自分に明日が来るのなら、今この頭に生じた夢を自ら握り潰して『絶望という惰性』を得ることで、やっと明日を迎える準備ができる。
『日々』は、夢と未来の殺し合いで成り立っている。

 同居人の実家で晩飯を摂るようになってすぐ、同居人の父親が「箸置きが欲しい」と言い出したので、100円ショップを幾つか回って、陶器の極普通の箸置きを買ってきた。
 晩飯の仕度時に、必ず箸などを置くのに使っているのだが‥‥‥食後、流しの引き出しに仕舞う前に、洗っているのを見たことがない‥‥‥。
 もしかして、食前の準備段階にしか使わない前提での箸置きなのか?と、観察を続けてきたが…、…どうもそうではないらしい。食事中に口を付けた箸などの、口を付けた部分を、ダイレクトに箸置きに置いている。

 

 ふ、不潔だっ。

 


 ちなみに藍乃には同居人の実家に於いて、食後の使用済み食器を洗うという役割がない。
 初めの頃はよく、食後、同居人とその父親がデザートとお茶をしながらテレビを見ていて、まだ時間が掛かりそうな感じの間に(藍乃は早々にお茶を済ませて)、台所で食器を洗っていたが、藍乃が台所に長居をしていると同居人の父親が訝しがるし、食器を洗っていると知ると嫌がられる。藍乃が食器を洗うとアパートへの帰宅時間が遅くなると考えているのか?(だったらテレビを見るのを止めようよ!)。

 


 必然的に、藍乃の取り得る選択肢は二つだ。

 

<選択肢一>
 こっそり先回りをして、箸置きを洗って仕舞う。
<選択肢二>
 清潔な箸置きの使用を諦める。

 

 <一>は、同居人の実家に行く事への精神的負担が、ますます増す。
 <二>の方が、逆説っぽいが(笑)精神衛生上はマシかも。

 

 

 

 《清潔な箸置きの使用を嫌々諦める》、もっと広い言い方をすると《納得がいかない事をありのまま受け入れる》
 ――これは、[生きづらさ]からの回復には、なかなか有効な発想かもしれない。

 

 

 

 だにしても、今日(こんにち)の日本宅事情で、普通に使用している箸置きを、洗いも拭きもせずに平然と使い回す家庭……。
 心底、信じられない。