J side



僕らがリビングに移動すると、

まず彼は庭に続く窓のカーテンを開けて、

窓も少し開けた。

部屋の中に月明かりが差し込んで、草や土の香りが少しだけ混じった新鮮な空気がそよ風となって部屋に入ってくる。


僕が先にソファに座ると、彼も一人分の空間を空けて僕の隣に座った。



「それで松本くんの話、聞かせて?」


彼は、膝の上に両腕をつっかえ棒のように置いて前屈みになって、僕を下から見上げてきた。



窓から差し込む月明かりのせいなのか、

薄暗い部屋の中なのに、

彼のその大きな瞳は力強く輝いているようだった。


僕は、彼のその上目遣いの瞳から逃げるように、ソファに深く座って、

しかし背筋は伸ばして座って、

僕の中で整理がつかないまま話始める。



「夕方のことなんだけれど、

やっぱり僕としては申し訳なくて、

何かお礼と言うか、謝罪というか

僕ができる範囲で櫻井くんに報いたいんだけれど。」



「なんだ、そんな気にする必要ないのに。

あれはもはやお互いさまでしょ。

っていうか、どちらかというと、

俺がセクハラで訴えられる事案だし。」



「いやいや、結局僕も脱衣所でセクハラまがいのことしてるし。」



「じゃ、おあいこじゃん。だから、何も気にすることないよ。」



「でも…。」


櫻井くんは特に気にしていないようだけれど、やはり僕としては負い目が残ってしまってスッキリしない。

しかし、おそらく彼の中ではもう終わった話なのに、再び蒸し返してしまった形になったことも申し訳なくて。



そんな僕の心中を察したのだろう。

櫻井くんはしばらく考えこんでいたが、

あ、そうだっと呟いた。



「じゃ、お詫びにさぁ。」



けれど、その後の言葉が続かない。



僕は、思わず首を傾げて彼の横顔を見つめて、次の彼の言葉をしばらく待っていると、彼は右耳を弄りながら少し照れ臭そうに笑って。



「俺のこと、名前で呼んでくれない?」

と早口で言った。


「へ?」


僕は、予想だにしないその言葉に思わず素っ頓狂な声をあげると、

彼はその返事の意味を勘違いしたのか、

両手で顔を覆うと、ソファの背もたれに埋もれて、あーと低い声を漏らした。


「だーかーらー、

俺のこと名前で呼んでほしいんだよ。

櫻井くんってさ、

なんだか距離がある感じがしてさ。

俺としてはさ、仲良い奴には名前で呼んでほしいっていうか…とにかく、松本くんには”櫻井くん”って呼んで欲しくねぇんだよ。

他の奴らとは区別してぇんだよ。」



彼はそれを口にするのが相当恥ずかしかったのか、こちらを見ようとはしない。

もっと恥ずかしいことを、僕の目を見て言っているくせに、

名前の呼び方の方が恥ずかしいのかな。



僕はそのギャップやら、彼の少し粗野な言葉遣いを新鮮に感じて、

思わずふふっと笑うと、なんだかさっきまでの緊張も嘘のようで、

逆に未だに緊張している様子の櫻井くんを少しだけ揶揄いたくなって、

彼の顔を覆っているその両手を取ると、顔を覗き込んだ。



「どーしようかなー?」


そう言って僕は笑いながら首を傾げて彼の顔を覗き込むと、

彼は目を丸くして、ヒュっと息を呑みこんで、今度はしっかりとその瞳に僕を映してくれて。


僕は彼の瞳の中に僕がいることが本当に嬉しくて嬉しくて、

言葉にはしないけれど、瞳の中の僕はきっとその表情いっぱいにこの暖かい気持ちが溢れているのだろう。






彼は、笑っている僕に手を伸ばしてきた。

僕は静かにその手の行先を目で追っていると、またデコピンをされて。



「まったく。

本当に君は不思議だな。

壁があるのかと思えば、急に飛び越えてくるんだもの。

ねぇ、他の奴らとは違うと思ってるのは俺だけ?

俺の名前呼んでくれる?」



彼はふっと優しく笑うから。

僕も笑って、

初めて今の彼の名前を呼ぶ。



「翔くん。」



翔政。

怖いよ、翔政。



この名前で呼んだら、

今度は僕の中にいるキミとの距離が遠くなってしまわないだろうか。



翔くんが近くなるほど、

キミが、キミとの記憶が、

遠くなって薄れていってしまわないだろうか。



あえて呼ばなかったこの名前を。



「翔くん。」



けれど、噛み締めるように何度も彼の名前を呼ぶ僕を、

そして嬉しそうに笑った彼に熱く心を震わせてしまう僕を、

少しずつ変わっていってしまう僕を、

どうか許してほしい。



月明かりの中、

僕が名前を呼ぶと、

彼は一気に力が抜けたのかそのままソファに深く体を沈めると、



「名前初めて呼んでくれたなー、嬉しいよ、潤。」



そう低く声で噛み締めるように彼はつぶやくと、そのまま眠りに落ちて、スースーと規則正しい呼吸音だけが聞こえてきた。



僕は、彼に近くにあったタオルケットをかけながら。

僕もまた、彼が初めて名前を呼んでくれたことに気がついて。



キミと同じ顔、同じ声に呼ばれた違う名前に。



清春

かつての僕の名を呼ぶキミとの記憶が蘇ってきて。



嬉しいのに悲しくて。

寂しいのに満たされていく。



相反する気持ちに、

少しだけ戸惑って、

瞳からこぼれそうになるこの涙を零すまいと

薄暗い部屋から見える、

満月を見上げた。