東京に住んでいると、疑問に思うことが多い。
よく、『東京の人はまわりに無関心だ』という言葉を聞く。
たしかにそう思う場面は多い。それは、個が確立され、相互に干渉せず、個の自由が存在するということだろう。
しかし、時にそれが行き過ぎになっている場面も見かける。他人の干渉がない自由を勘違いして、自分勝手になっている人が多いような気がする。
他人に干渉しないことは、相互が、一定の最低限度の制約を守ることを約束していることが、条件となる。
社会性を持って、生きる人間にとって、集団の和を守ることは大切である。
その和を乱さないように、警察権力があり、法律や罰則がある。これは、今に始まった話でなく、かつての村八分などの罰にも現れるように、自分の存在が他人に認められないことは辛いものである。自分の存在自体も、他人に由来しているところも多い。
しかし、他人の目ばかりに注視して、自分を持てなくなることは問題である。
自分の信念は何人も持つべきである。
社会性を持ち、集団に属する人間社会にとって、個と集団、個と個、集団と集団の間には、利害が衝突する可能性は否めない。
だから、統治機構があり、法律がある。ルソーが、『社会契約論』において、自然状態を理想化し、自然に帰れと叫ぶ。自然状態は理想だからこそ、今の在り方に疑問を問い続けなければならない。社会に生きる人間にとって、それが課題であり、そこに本当の、自由・平等を精査する必要があるのではないか。
