何と言いますか、これってとても難しいおはなしなんですよね。

現代人といいますか、非クリスチャンの私たちはこの言葉を自己実現の言葉のように捉えますよね、多分、ほとんどの人がそうなんじゃないかと思います。。求めて、探して、戸を叩けと。目標を決めて、手段を考え、自ら行動を起こせという言葉だと思いますよね。でも本当のところはそうじゃないらしいです。たとえば、あなたが母ならば、自分の子供がご飯を食べたいとえば、大したものは用意できなくても、ちゃんと食べられるものを与えますよね?子供には親というものはそういうものでしょ。凡人であってもそうなのですから、ましてやわれらが父であらせられる神が、私たちにとって良くないものなど与えるはずはない。今与えられているものも、私たちにとって良いものなのであるということなのだと。たとえば、むかつく夫であっても、どうでもいいことにいつまでも、ああでもない、こうでもないとずぅっと言いあっては、仕事に身の入らない向かいに座る二人の同僚女子にイラついている自分も、神様が私にとって必要で、それはあなたにとって良いものなのだよと与えてくださいっているのだということです。神の心に沿っていれば、必ず乗り越えられる状況なのだということらしいのです。まだまだ人として修行の足りない私には、とても難しく感じてしまいました。ちょっと思い当たる節は、忍耐力と他者への寛容が私には足りていないのでは?と神は語りかけてくださっているのかもしれません。人は思いやりですよと。もし、誰かが自分の望むもの望んで与えられたと感じているならば、その願いは神の思いに沿っているということ=真理をついているということなのだという理論なのでしょう。非常に心のお話しという要素を感じさせる話しであると同時に、論理的に幸せを定義しているようにも思えます。こういう未熟な自分を忘れてはいけないということを説いているのでしょう。なんだか今日はよくわからなくなりました。