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今日は終戦の日


母から
何度となく聞いている
戦争時代の話を
改めて聞いてみました


母は現在86歳
終戦時は
7歳だったそうです


母は東京都港区の出身
父親(私からみて祖父)は
店を営んでいました


家には
両親と妹と弟2人の
4人きょうだいに
住み込みの使用人が
何人かいたそうです


戦争が始まり使用人は
田舎に帰ったそうで
戦争中は家族6人でした


防空壕(ぼうくうごう)

家の敷地内に防空壕が
あった話は前から
聞いていましたが
詳しく聞いてみると…


玄関のたたき(土間)から
一段上がって廊下になる
その段差部分の板を壊して
下の土を掘り、防空壕を
作ったそうです


「防空壕」で画像検索すると
入口が板や石で囲まれて
中にも柱が入ってるような
防空壕の写真が
出てきたりしますが


そんなじゃなく
ただの「ほら穴」って
感じの防空壕だったらしい…


祖父(母の父親)が
1人で掘ったってことも
びっくり(*_*;


空襲警報が出ると
家族6人ひしめき合いながら
狭い防空壕に入り
警報が解除になるまで
じっとしていたそうです


「虫が入り込んだりして
狭いし怖いし嫌だったわ~」
と言ってました


出征するご近所さん

ご近所には
出征する人もいて
皆で見送ったそうです


出征した人も
一緒に見送った近所の人も
その後、二度と会うことは
出来なかったそうです…


入学から数日しか
登校できなかった小学校

母は近くの小学校に入学
戦争がひどくなり
入学したものの
ほんの数日しか登校
できなかったそうです


埼玉に疎開

その後、
祖父(母の父親)の実家がある
埼玉に一家で疎開します


東京から埼玉まで
家財をのせた荷車を
牛にひかせて(牛?!)
運んだそうです


埼玉の家には
他にも疎開してきた
親戚がいたため
母屋には入れず
母たち一家は物置きを
改造してそこで生活したそうです


母は埼玉の小学校に転校
「東京者!」
「東京に帰れ!」と
いじめられたそうです


父親は軍事工場へ

祖父(母の父親)は
手に職を持ち技術があったので
疎開するまでは
軍事工場で働いていました


東京大空襲

中川の橋の上から
祖父(母の父親)と一緒に
東のほうが
真っ赤に燃えているのを
見たそうです


「疎開するのがもう少し
遅かったら、あの大空襲に
あってたかも…」と母は
言ってました


橋の上から見たのは
何とも言えない光景
その赤く染まる空の色は
今でも目に焼きついて
いるそうです…


終戦をむかえる

8月15日
隣近所集められ
ラジオ放送を
聞いたそうです


大人は泣いていたけど
自分は子どもだから
何のことやら分からない
後で大人から説明され
「戦争は終わった」
「日本は負けた」
そのことを
やっと知ったそうです


東京の焼け野原を見る

終戦して間もなく
祖父(母の父親)は
何故か母だけ連れて2人で
汽車に乗り
埼玉から東京まで
もと住んでた場所の様子を
見に行ったそうです


東京は焼け野原
どこがどこだか
分からないくらい
この光景も
母は鮮明に覚えているそうです


衝撃だったんでしょうね…



計り知れない犠牲のもとに

疎開する前に
遊んだ仲良しの子達や
ご近所さんは
その後どうなったか
分からず終いだそうです


戦後79年


計り知れない犠牲のもとに
今の平和があるのでしょうか…


世界から
戦争という不幸が
なくなるように祈ります