日本農業の将来ビジョンと農の本質 | 象の夢を見たことはない

日本農業の将来ビジョンと農の本質

昔に書いた反逆的な文章だが、本質は変わっていない。

なお、こういう意見を農大の生徒として書いて課題で提出すると県で共有されるらしく、これ以降、行く先々で目を付けられるのだが、県職員の人でも密かに賛同してくれる人はいた。

みんななにかを良くしたいのである。

 

「学生意見発表」夏休み課題  2014年8月30日

  

日本農業の将来ビジョンと農の本質

                               

第一次産業と第二次産業の大きな違いとして、製品の歩留まり率をコントロールすることが困難であることがあげられる。自然現象が相手の第一次産業、例えば農業を例にとってみると、日照時間、積算気温、風水害、年により異常発生することがある病害虫など、人知によってコントロールできない因子が大きく、その影響も経営上重い。そのため、政府の補助なく健全な経営を行おうとすると必然的に内部留保を多くとっておく必要がある。例えば、製品単価が安い生産物を作る企業でこれを考えた場合、中小企業であれ、大企業であれ、如何にそれが困難であるかは想像に難くない。

 

単価の安い製品を作る企業を想定してみよう。

例えば、

①    定価(売値)は同じ

②歩留まり率をコントロールできない

ことを前提としてみる。

製品製造のリスクを抑えようとすると、必然的に生産コストを下げる方向へ流れるしかない。大量生産して一つ一つの製品の生産コストを下げることで歩留まりによる損失を吸収する。

 

しかしながら、大量生産した場合、結果的に製品の定価(売値)は下がる。

これに対しては、一つの手段としてマーケットを広げる。マーケットを広げるために海外に輸出をする。

あるいは、さらなるコスト削減を目指し、人件費の安い海外での生産を考えるようになるかもしれない。

 

いずれにせよ、薄利多売的な経営スキームをとることになる。

そして、経営の大規模化が必要となるという結論。

 

大量生産されうる製品は、その製法さえあきらかになれば、大量にコピーされうる。その結果がシャープの液晶テレビ戦略にみられるような、日本家電王国の崩壊劇。そして、いざ「ものづくり」を見直そうとしても、本体はすでに生産管理だけを行っている状態で、肝心かなめの技術開発能力は、外部委託、派遣雇用、海外への生産移行などにより、空洞化してしまっている。企業再生能力の弱体化である。

 

細部のストーリーに違いはあれ、結局のところ、大まかに言ってそういうレベルのストーリーになるようなスキームでしか今日の農業経営の未来は語られていない。

 

一方で、TPP加盟問題など農産物の輸出、輸入の自由化の波はもはや目前まで迫っている。安倍政権以前、例えば白川前総裁時代の日銀の為替介入が円高ドル安になんら影響を与えなかったように、世界経済はたかだか一国の経済介入によりその流れが変わるレベルのものでなくなっており、従って、もはや国の補助金政策レベルでは、輸入自由化による農産物の価格下落を抑え切れるものではないことは自明である。

 

かくして、小規模農家は蹂躙され、大規模農家も崩壊しうるというシナリオが出来上がる。

 

ここで、発想を180度転換してみよう。すなわち、農産物の自由化ありき、政府の補助金はなしということを前提とした場合、一体誰が困るのかということである。

一般の市民は、農産物の輸入自由化により、公正なマーケット価格で農産物が買えるようになる。税金も減る。

結局、困るのは農家だけである。農家だけとは言わずとも、その一番の矢面に立たされるのは農家となる。(あるいは、本当に困るのは現在の補助金農政にぶら下がっている公民の各種機関かも知れないが。)

 

さて、本当に農家は困るのか。結論的に言えば、困らない。現在、多くの農家は高齢者問題、後継ぎ不足の問題を抱えている。そういう問題を抱えている彼らのほとんどは年金受給世代である。例え、農家を廃業したとしてもすぐに食うに困るということはない。だから、逆に自由化の波が押し寄せ、補助金がカットされても続ける人は農業を続けるだろう。ライフスタイルとして農業として。あるいは生きがいとしての農業として。

 

逆に高度高齢化社会により、余暇やレジャーとして農業を選択する人はそれらの人々の中に増えてくる可能性も大きい。特に昨今の中国産の農産物の品質問題や減農薬嗜好など、農産物の自由化により自分の食の安全が脅かされると考える人は現在でも年配の方々の中に既に多い。それらの人の多くは「孫たちに健康な食生活を」とも願っていたりする。

 

したがって、農業全体で考えた場合、今後そのマーケットは、農産物を必要とする人の中にだけあるわけではなく、現在でも徐々に既に増えてきているが、余暇を農業に充てたい人の中にあるいは彼らそのものがマーケットになりうる。ある特定のコミュニティやそれらのコミュニティのネットワーク内で求められる農産物、そして、それを直截的、間接的に求める人、そういう人を対象にしたマーケットなど、付随的にさまざまなマーケットが発生することになると考える。そういった意味で、逆にビジネスチャンスは増える。単に、第一次産業として生産した製品を加工して売るという六次産業ではなく、リクレーションやサービス業も含めた総合的なビジネスとして農業を自社ビジネスの中に取り込もうというベンチャーな発想をもった人や企業もでてくるだろう。もう既に出てきているが。

 

一方で、大規模農家はどうなるか。基本的に、自由化によって農産物マーケット自体は縮小する。特に、今手厚い保護を受けている農産物品目ほどマーケット規模の縮小率は大きくなる。市場が自由化されるわけであるから、結局のところ、需要と供給の関係によって市場価格が決定されることになるため、逆に生産者側にとっても、本来的には、何をどの時期にどれだけ売れるかを予測しやすくなる筈である。補助金を当てにして生産計画を立てるような意識レベルの農家や農業法人は淘汰され、特定の戦略でマーケットを狙い撃つ、特定顧客ルートを開拓するなど、経営意識の高い農家や企業のみが生き残ることになると考える。

 

いずれにしても、自らが農業をすることの意義を明確に意識した人のみが、農業という職業を選択することになる。それは決して悪い未来ではないと自分は考える。

 

ここで、もう一つの課題、果たして農業の本質とは何か、あるいは第一次産業の本質とは何かということを考えてみる。

 

第一次産業から第二次産業に、そしてそれも高度化すると、必然的に分業化が発生する。

分業することによって、作業が効率化できるからである。製品は高度化すればするほど、大量の種類の部品、数多くの工程を経ることで、より付加価値の高い生産物となる。しかしながら、このように高度に複雑化した生産物を作る上で、各々のそれに従事する人の役割は相対的に少なくなっていく。部品を作っていても果たしてそれがどのように直接のユーザーに役立つのか、そんな全体像がつかめなくなり、仕事をする上で、自らの存在価値であるとかアイデンティティが喪失されていく。生産が高次、副次化されていくと、それらの生産工程を管理するだけの人も増加する。一日中、取引先や部下、部署からのメール対応だけに終始し、果たして自らが前に進んでいるのかどうかもわからない。そんなふうにして、生きがいを喪失して心を病む人も多い。

 

第一次産業は五感に訴える産業である。生産物は目に見え、手で触れることができる。匂いがある、食べられる。なにより、生産過程が見渡せ、その全体像を把握できる。人は自分の行動に対するフィードバックがないとその行為の意味を見いだせない。五感は、非常にプリミティブで、かつ強力な生き甲斐発生装置と言える。原始的な分だけ直截的に脳や身体に、あるいは心に響く。バーチャルでなく、リアル。それが農業の本質である。

人は自らの身体を離れては生きては行けない。

自らが農業をする意義というのは本質的にそこにある。農業の面白さというのもそこを離れては存在しえない。いずれにせよ、農の本質を体感して、その意義を認識しうる人のみが生き残っていくだろう。そんなふうに自分は考える。

                                               以上