plurality | 象の夢を見たことはない

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NHK 日曜美術館の華麗なる天平の至宝~第66回 正倉院展~を見ていた。
正倉院的美術をみるときにはどうしてもそのデザインを真似するとか利用するという観点で見てしまう。古代に想いを馳せる匂いがするデザイン。しかも図形として認識しやすいというか、二次利用しやすいわけで。デザイン権もなし。

なんていうか、自分の中のそういうオイシイとも思っている部分、商業的なものの見方にどっかで飽きちゃっている部分もある。本当に美しいと思う。というのとは別の場所が働いている。抽象画ではなく、デザインとしての美しさというか。

自分が考える美術というのはデザインになる前の不定形の何か。キレイな答えがまだ出ていない。フラストレーションに対する欲求をカタチの中に内在している。

抽象画というのは、その絵が何の絵かを認識する前のモヤモヤ感がある。
何かの事物をみて、それが過去の何に似ているかを頭の中で検索するわけだが、その認識のパターンというのは、個人によって違う。

もし、人工知能が発達した場合のコンピュータのSingularityというものを考える場合、その個人差をどういうふうに集約するのかというポイントで、個人差を無視して『個』というものに収まろうとする方向性を持つのであれば、多分それは間違いなく間違った方向へ進むだろうと思う。

her/世界でひとつの彼女を観ていたのだった。
一神教的な世界観。

因果論的な世界観を持ちつつ、方向として拡散する。
それが宇宙の在り様なので、そう考えた場合、例え人工知能が人間を追い越したとしても、それが支配する未来はある方向性をもって進むということはないだろうと。自分はそう考える。

おそらくその考え方は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という世界観をもつ人々にはわからないと思う。1か0かという判断結果でなく、判断するプロセスで結果は変わる。多神教というのはそういうものだ。そういった意味で、1と多ということではなく、そもそも同じ平面にはいない。自分はそう思う。



内在しているものが本体であって、それを内在させたまま進む。または進むこと。欲求不満であることに対する欲求。普遍性というものの正体は、そっちのほうにあるような気がする。