『嘔吐1979』 村上春樹 | 象の夢を見たことはない

『嘔吐1979』 村上春樹

「彼は長い期間にわたって一日も欠かすことなく日記をつけることができるという稀有な能力を身に付けた数少ない人間の一人」でした。

なるほど、これがキーワードだったのか。

vomit 嘔吐する
vomiting 嘔吐

ingをつけて動名詞。 あるいは現在進行形?

英語と日本語の構造的な違い。似たようなものを探す。「遊ぶ」と「遊び」?語尾変化させて、動詞を名詞化する。現在進行形だと「遊んでいる」になるのか?

翻訳作業をしていると、なんだかそういうゲシュタルト崩壊が起こることがある。
あまり普通は考えないのだが、なにかが気になりだすととまらない。そういう崩壊する何かというのは筒井康隆の小説の基礎になっていて、そんな筒井康隆に翻訳家の岸本佐知子さんが影響を受けたっていうのもなんだかよくわかる。偏執狂的なベクトルを心の中に持っている。要はマジメなのだ。まじめに向き合えば向き合うほど、自分のほうが狂ってしまう。言葉にはそういうところがあるらしい。

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例えば、嘔吐1979とは一体何なのか?

He vomited on xx in 1979 ?
He has been vomiting since 1979 ?
He vomited 1979 ?
???

どれかわからない。なんだ?この嘔吐って?1979というのはどういうことだ?1979年のことなのか?1979年からっていうことなのか?果たしてこれは年なのか?回数かもしれない。否、もしかして隠語なのか?どういうことだ?なんてことを考えているうちに目の前の文章がゲシュタルト崩壊を始める。目が回る。気持ち悪くなってくる。あるいは気持ちよくなってくる。

翻訳というのは細かいことに気づく様になればなるほど変なふうに勘ぐらなくてはならなくなる。そういう作業。

意味が飲み込めない。

飲み込む。意味を飲み込む。そういう言葉にあるようにメタファーというのは身体と密接に結びついている。この感じってアレに似ているな。うーむ、そういう感じをうまく短編小説で表せないだろうか?なんていうふうに、その手の習作的な実験を作家という人種はよくやるのである。
たぶん、これってそういう習作なんじゃないんだろうか?
身体メタファーって読んでる人の身体に響かせることができるという理由で結構使えるのだ。そのメタファーの片方の先は自分の経験と結びついているから、いろいろひっぱりやすい。

そういえば、村上春樹のあの的をはずしたような比喩っていうのは、翻訳作業を日常的にしてて、そういう言葉のありように腹を立てた、ひねくれものの村上春樹らしい意趣返しというか、腹立ちまぎれの言葉の試し打ちというか、そういうもんじゃないのかと個人的には思うのだ。だからあんまし意味なんてない。

『村上春樹イエローページ』?くっすー、こいつひっかかりやがってかお
て本人は思っているかも知れない。

翻訳家である村上春樹が書いた小説っていう点で彼の小説を読み直すと、彼の小説の作り方っていうか作文の方法がチラリと見える。そんな短編も結構ありそうな気がするのである。村上春樹的作文のお作法、売れるのではないだろうか。そういや、明日というかもう今日だな、ノーベル文学賞発表だとか。やれやれ。