エロスとタナトス  | 象の夢を見たことはない

エロスとタナトス 

バタイユの『エロティシズム』。

まえがきだけ読んだ。だいたい見えた。

エロスとタナトスが表裏一体であること。

要はそういうことを言いたいらしい。

タナトスというのはフロイトが晩年に言い出したというか苦し紛れに編み出したのだけれど、生と死が表裏一体であることを考えれば、やっと晩年で彼の理論は帳尻があったのだとも取れる。

ここで免疫の話を少し。

免疫的な拒絶反応は、しばしば個体そのものを破壊するまで突っ走ってしまうことがある。

胸腺は免疫をつかさどる器官であるが、人間では十代前半で最大となり、約三十五グラムに達する。性成熟後は急速に小さくなる。

T細胞はその胸腺の中で作られるのだが、「自己」そのものと反応して、「自己」を排除してしまう可能性のある細胞は、「死」がプログラムされる。細胞の中ではDNAがズタズタに引き裂かれて細胞はゆっくりと死んでいく。これはアポトーシス(プログラムされた死)と呼ばれる。

胸腺はまた、それ自身かなり正確な生物時計である。胸腺の退縮に応じて免疫系にはドラスティックな変化が起きる。自己と非自己の識別の失調を含む自己の崩壊過程である。
(以上、参考『免疫の意味論』多田富雄)

かなり無茶を言えば、生物の進化の過程であるいは複雑化しあるいは単純化していった細胞や器官の機能そのものが、快・不快、快楽と恐怖の感情とともに無意識に刷り込まれていると考えられなくもない。

あるいはそれら自身がなにかを象徴する形でメタ認識として無意識的に畳み込まれてたりとか。

ただそもそも、自己と非自己の認識なんていうシステム自体が多田さんが「超(スーパー)システム」なんてことを言われるくらいでどうやって制御されているのかわけわからん系だったり。

そんなふうに免疫と心理学というのは、かたちが見えなくて非常にあいまいなところが似ていたりする。
ただ、そのあいまいさの意味するところは、しばしば劇的に二律背反で、致命的な結果を伴うようにもみえる。

人の機能というのはどうやら本来そういうものらしい。社会学もそういう「自然科学」を無視して進むことはできない。

それで、バタイユの『エロティシズム』は理系的にはおしまい。

理系という考え方はなにかを切って捨てるには結構便利な道具である。

三島由紀夫が一番親近感をもっていたのはバタイユだと。うそかほんとか知らないがもっともらしい。

その三島由紀夫の哲学をそんな風にあじもそっけもなく解釈したところでおもしろくもおかしくもない。

逆にそんなことで、彼の小説のおもしろさは損なわれることはなく、しっかり人という存在の中で立っていたりする。

ということでバタイユ終わらしたいのだが、そうもいかないのかねえ。

哲学っつうのはまったくやっかいである。