『モオツァルト・無常という事』 | 象の夢を見たことはない

『モオツァルト・無常という事』

マーティン・スコセッシの『タクシードライバー』を20代のときに見た。


「チェーンのように途切れることのない毎日」に絶望しきっている主人公という設定は、あまりにも当時の自分と似通っていて、その「毎日がチェーン」という言葉から逃れることがほんとうに長い間出来なかった。


過去から未来に向って飴のように伸びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われるが)…


これは、小林秀雄の「無常という事」の中の一文。


ロバート・デ・ニーロが演じるそのタクシードライバーがとった行動はあまりに過激すぎるのだが。。

映画で描かれるトラヴィスには過去がない。彼の過去に観客が思いを馳せられるシーンは皆無だったように思う。不眠症で、いつも夜の街を流している。それが観客が知りえるトラヴィスのすべてだったような。


思い出を鮮明に思い出せる。

向田邦子さんのエッセイを読んで感銘を受けるのはまずそのことだったりする。泣く泣く朝餉のおひつの上で書き取りの宿題をしたときのごはんの湯気の具合まで覚えてたり。

私の妹も、そういう感じに小学校の頃のことを生き生きと語れたりするのだが、あれは女の人しかできないようにも思う。


してみると、飴のように伸びた時間なんていう妄想は男だけのものかとも思ってみたりもする。

少なくとも、理由もなしに連続殺人なんてすることにはなるまい。アレをするのはそういう理由であってそれは男だけだと本能はそう告げているのだが。。


上手に思い出すことは難しい。


そう小林秀雄は言う。そして上の言葉に続いていくのである。


上手に思い出すことは難しい。

だが、それが、過去から未来に向って飴のように伸びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。


なるほど。。


そう思っているといきなり次の文である。


この世は無常とは決して仏説というようなものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。


え?どういうこと?


思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕らが過去を飾り勝ちなのではない。過去のほうで僕らに余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕らを一種の動物であることから救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。


そういう前置きに戻らされる。なんちゅう、読みにくい文だ。。


「余計な思い」というのが、まったくのところそのとおりだろうと。


いやはや、まったくもってこの本は恐ろしい。小林秀雄の最高傑作だと思う。

たぶん、明日は明日で別の読み方をするだろう。

こないだはこないだで別の読み方をしたように。

はたして、そんな風に毎度違ったように読めれば、自身が人の理にかなった生き方をしているということになるのかもしれない。

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)/小林 秀雄
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