『国家の罠』 佐藤優 新潮文庫
ロシア外交、北方領土スキャンダルで政官界を騒がせた鈴木宗男事件。
外務省でロシア情報に精通し、情報屋として鈴木宗男と密着し行動していた著者は国家よりその罪を断罪され、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕される。
その全貌と検察との闘い、獄中記を記したのがこの本である。
- 国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫 さ 62-1)/佐藤 優
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まあ内容については置くが、外務省の官僚という人々と国民との意識のズレを知るにはうってつけの本かも。
ありがちだが、組織の金がどこから出てるかに対する認識が甘い。
「テメエの食い扶持は当然だけど予算もテメエの仕事で稼ぐ。それができなければ辞めるしかない」。そういう意識で働いている職場の人間からすると、まさに
かんっがえられへん
そういうふうに思う一般社会人の人が多いのではないだろうか。
国家公務員倫理法も、見方を変えれば、国として「公務員はお金をもらうことはできません」逆に「お金をあげることもできません」という宣伝をしてくれているようなもので、特に一般の会社や大学・研究機関とのやりとりにおいては使いようがあると思うのなのだが、「あれで仕事がしにくくなった」と正直に述べているくだりには正直呆れてしまった。ワキが甘すぎだろう。
懐も甘すぎで、カモがネギをしょって歩いてきたと、出張費やら研究費を立て替えて払ってくれると手放しで喜ぶ連中がいたとしてもおかしくはない。自分ならそう考える。
情報社会の特殊性というのはどうしてもあるのだろうけれど、新聞記者や商社マンなど一般社会で情報を扱う職種の人々は仕事の範囲内でやりくりしながら相手との駆け引きで、金も情報ももぎ取っているはずだろうからだ。
金つき情報つきの官僚は相手側からしたらカモにしかみえない。
国策捜査で挙げられたとの意識も、裏の心理や論理の組み立て方も、ちょっと一般社会人の常識からすると考えられないところもあるのだが、まあそれも立ち位置の違いからくるのかとしておこう。
「渦の中にいるものは渦自身が見えない。対岸に立つことではじめて渦を見ることが出来る」とはよくいったもので、情報屋であろうが、検察であろうが、すでに国民からすると対岸から見れる位置に存在する。
国策というのはそもそもそういうものだという認識を新たに出来た。
総じてたいへんオモシロイ本であった。
認識論的に『鈍い』とか『考えが浅い』、あるいは『もともと頭になかった』なんていう未分化なところというのは、どの職種や職場の人たちにもある。なにを基準にどう動くかというのは仕事やその人がメインに属する社会で規定されてしまうところがある。それをはみ出すとその会社や社会では生きていけなくなるからだ。
だからそういうのは誰にだってある。
ただ、それは渦中にある自分には決して見えない。指摘されて納得する。
そういうのを指摘してくれる良い友達を持てればいいのだけれど、指摘されても自分が愛しいとおもってしまう。
なかなかいろいろ難しい。
追記 佐藤氏に対する、あるいは佐藤氏に憤慨する自分に対する告発(『モオツァルト』 小林秀雄より抜粋)
ここで、もう一つ序でに驚いて置くのが有益である。それは、モオツァルトの作品の殆どすべてのものは、世間の愚劣な偶然な或いは不正な要求に応じ、あわただしい心労のうちに成ったものだという事である。制作とは、その場その場の取引であり、予め一定の目的を定め、計画を案じ、一つの作品について熟慮専念するというような時間は、彼の生涯には絶えて無かったのである。而も、彼はそういう事について一片の不平らしい言葉も残していない。
これは、不平家には難しい、殆ど解き得ぬ真理であるが、不平家とは、自分自身と決して折合わぬ人種を言うのである。不平家は、折合わぬのは、いつも他人であり環境であると信じ込んでいるが。環境と戦い環境に打勝つという言葉も殆ど理解されていない。ベエトオヴェンは己と戦い己に打勝ったのである。言葉を代えて言えば、強い精神にとっては、悪い環境も、やはり在るが儘の環境であって、そこに何一つ欠けている処も、不足しているものもありはしない。不足な相手と戦えるわけはない。好もしい敵と戦って勝たぬ理由はない。命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ。この思想は宗教的である。だが、空想的ではない。これは社会改良家という大仰な不平家には大変難しい真理である。彼(※1)は、人間の本当の幸・不幸の在処を尋ねようとした事は、決してない。
※1 モーツアルトそれとも不平家?どちらにもあてはまるような気がする。。