ひな祭りの翌日の3月4日に母が逝った。
食べなくなって、1週間後、
眠るように息を引き取った。
沢山の花に囲まれて、棺の中で眠っている母は穏やかな顔をしていた。
すっかり痩せて小さく小さくなっていたが、綺麗に化粧をほどこされた顔は若返ったように見えた。
鼻筋が通った顔立ちに、長い睫毛、何処か、異国の女性のように見えた。
90歳。
卒寿という。
大往生だったと思う。
母は石垣島で生まれ育ち、
人生の大半を沖縄本島で過ごしたが、
最後を大阪で迎えた。
父の死後、独り暮らしをしていたが、
いつしか脳の血流不足による認知症を発症していた。大阪に住む姉夫婦が引き取りを申し出て、
住み慣れた故郷を離れ、姉夫婦の住まいの近くの特別養護老人ホームに入所した。母の記憶は段々失われ、
娘の私の事も忘れてしまった。
面会に行った帰り道、
私は子供のように声をあげて
泣きながら歩いた。
自分が忘れられた事よりも、気丈で聡明だった母の変わりようが哀れでならなかった。
でも、その時期の母は、娘時代に戻り、
両親や兄弟姉妹と故郷で暮らした頃の記憶の中に生きてるようでもあり、
もう哀しく無いかもしれないと思った。
施設に入ってⅠ8年が経っていた。
幸いにも、とてもいい施設で穏やかな時間を過ごしたと思う。
最後に面会に行った帰り際、
今までに無い程、寂しげな顔をしたのが、 気がかりであった。その時、母は死期を悟っていたのだろうか?
それから4ヶ月後、息を引き取った。
大阪で葬儀を済ませ、遺骨と位牌を福岡に連れて帰ってきた。
49日が明けて、故郷の沖縄のお墓に納骨する事となる。
私は体に力が入らないような想いで、のろのろと日をしのいだ。
2度と会えないと思うと哀しかったし、苦労の多かった母の人生を想い、憂いた。
自責の念も強かった。
食べなくなるという事は、
生きるのを辞めたいという事なのか?
もう充分だと思ったのか?
朝晩、お茶や線香をあげ、話しかけるようにしていると、母が近くにいるような想いになった。
洋裁学校に通った母は、
自分でハイカラな服を仕立てて着ていた。
私達3姉妹も、母の手作りの服を着ていた。町で1番目に女性で車の運転免許を取った。
圧倒的多数で、区長に当選して、女性で初めての区長さん誕生と新聞に載った。
その頃、
区長は幼稚園の園長も兼任していたので、
施設が狭い事や保育士の不足を訴え、改革した。
自宅を開放し、赤ちゃんクラスを設置した。
末っ子だった私は帰ると赤ちゃんが居るのが嬉しくて、学校が終わると急いで帰った。
私が小学校低学年の頃の事だから、母はまだ40代前半だった。
女の癖にと、親戚からは避難され、
まだまだ、女性には風当たりの強い時代だった。50代では手工芸の教室をしていた。
今のように、習い事などあまり無い時代だったから、講習の依頼が多く、車に材料を積み込み、遠い地域まで 自分で運転して行った。
依頼があれば、離島まで行った。
沖縄の伝統工芸の織物や染め物の生地を袋物や小物に仕立てる技術を指導して、物を造る喜びを伝えた。
民芸品店に出店したり教室を開く人も出て、女性の経済の助けにもなった。
そんな事に想いをはせていると、
気持ちが楽になった。
なんと盛り沢山の人生ではないか。
母の人生はきっと充分していたのだ。
そう思える事は残された者にとって1番の救いになる。
死者は49日かけてゆっくりと旅立って逝くというが、それは残された者が心を整理して、納得する為の時間なのだと思う。
いつか私も逝く。
肉体は朽ち果て、素粒子に還る。
魂は大きな宇宙意識と一つになり、愛しい人々にまた、出会えるという。
それを信じたい。
