恋に落ちているときほど、苦痛に対して無防備であることはない。
ー ジークムント・フロイト ー
決戦の金曜日。
今日は休診日にしてしまった。
特に予約入ってなかったから助かった。
ホームページにすぐに休みだとお知らせに入れといたし、大丈夫だろう。
「もう時間?眠すぎ……」
ブラックコーヒーをいれてると、情けない声が聞こえた。
ソファーで酔い潰れて寝ていた海斗だ。
昨日の夜、仕事を終えた海斗は俺ん家に酒を持ち込んで泊まりにやってきた。
二人して、午前三時まで起きていた。
「8時に駅で待ち合わせだから、遅くても7時20分には家を出るよ」
海斗「今何時?」
「6時過ぎ」
海斗「マジかぁ...三時間も寝れてないじゃん」
文句言いながらも起き上がる海斗は、寝起きがいいのか、はたまた、聞き分けがいいのか。
と言いつつ、俺も眠い。
二人でブラックコーヒーを寝ぼけながら飲み干し、サクサクと準備をして家を出た。
海斗「お前本当に運転出来るの?」
「出来るよ」
海斗「運転してるとこ見た事ないから不安だな」
「まぁ、車出すのは二週間に一回ぐらいかも」
海斗「は?一ヶ月に二回しか運転しないの!?なのにK病院まで行けるの!?」
「行けるでしょ。ナビで調べると、高速降りたら目の前が病院だし電車より都合いい。電車だと四回も乗り換えあるし」
海斗「ここド田舎だもんな...ていうか、みーちゃんが来たとか言ってなかったっけ、昨日」
「忘れた?来たよ、ピアス探させてとか言って無理やり家の中入ってきてキモかった」
海斗「それは怖いな...俺からガツンと言っとこうか?」
「ま、ハッキリ言ったから大丈夫でしょ。万が一、次来たら警察に通報するから」
海斗「警察って!容赦ないな」
「そこまでしないとあの女は自分が異常なことをしてると、一生気が付かないだろ」
海斗「ピアス探すのは異常か?」
「異常だよ。ピアスなんてただの口実。半年近く経ってるのに探しに来るなんておかしいだろ」
海斗「うわ。半年は異常だな」
海斗が納得したところで、俺は窓を開けて新鮮な空気を思いっきり吸った。
心を落ち着かせたかった。
これから愛美さんに会うのだから...。
「なぁ、この車臭くない?」
海斗「車独特の匂いはする」
「臭いのか!?」
海斗「いや?車の匂い」
「だからそれって臭いのか?」
海斗「ちょ、なんでだよ!今から記憶喪失の患者さんが乗るからそんなに気にしてんの!?」
「い、いや?」
図星をつかれて、ついどもってしまった。
車独特の匂い?
大丈夫か?
早くも加齢臭とかじゃないよな?
俺は信号待ちの間に、急いでダッシュボードを開けて、吊るすだけの芳香剤を出した。
「海斗、すまんがこれ開けてそこに吊るして貰える?」
海斗「お?おぉ……」
海斗は余計な事を突っ込まずに、黙って俺の言う通りにやってくれた。
こういう所、気が利いて良い奴だ。
海斗「やっぱめっちゃ気にしてんじゃん」
「ん?」
海斗「まさかとは思うけど、その患者のこと気に入ってんの?」
「……!」
海斗「危なっ!?」
青信号だと言うのに、焦ってブレーキを踏んでしまった。
海斗「まさかだよね?」
「今日は彼女の記憶を取り戻るために行くんだ。だから絶対に余計なこと言うなよ?」
海斗「……わかった。お口チャックな」
「素直でよろしい」
もうすぐ、駅に着いてしまう。
二人きりじゃないのが、頗る残念ではあった。
この流れだと、彼女は後部座席に乗ることになる。
俺は背後から愛美さんの視線を感じながら、カッコよく運転出来るのだろうか。
「運転下手だね」と、思われないだろうか。
やはり電車で行くべきだったか。
段々と不安になってきた...。
海斗「そういえばさ、この前銀行員の女と寝たとか言ってたじゃん?友達紹介してよ」
「えっ?あ、あぁ...でも今はお互い忙しくて、連絡とってないから」
海斗「早めに頼むよ~俺もそろそろちゃんとした彼女欲しいし」
「いいナースはいないの?」
海斗「いるわけ。いても大体お偉いさんたちの不倫相手よ。俺そういう女、ガチで無理」
「ははっ!やっぱりか。その気持ちはわかる。金のために体売ってる、売春婦みたいなもんだからな」
海斗「だろ?俺は真面目で一途な女の子がいいの」
気持ちはわかる。
ナースイコール天使というのは、幻想である。
入院して弱ってる時に自分のためにお世話してくれるから、天使のように見えるだけだ。
それに、何だかんだ言って、若い看護士ばかりではない。
おばさん看護師の方が圧倒的に多い。
若いナースはすぐに、お金を稼いでる医師たちの餌食になってるのだろう。
たとえ、看護師が別れてフリーになったとしても...。
そんな上司の食べ残しみたいな女を、抱きたいとは思えない。
海斗「この駅で待ち合わせ?」
「う、うん」
着いてしまった。
信号を左折し、ロータリーに入る。
見渡すと、黒スーツの愛美さんが立っていた。
緊張する……。
海斗「あの子?」
「そう」
ハザードを出して、愛美さんの目の前に車を停車させた。
愛美さんは、ペコリと軽くお辞儀をした。
俺はドアを開けるために、車から降りた。
「おはようございます」
いつも通り、涼しい顔で言ったが
彼女はとんでもない事を言い出した。
愛美「おはようございます。あの、ワガママ言ってもいいですか?」
「どうしました?」
愛美「私、助手席座りたいです……」
「えっ?」
心臓が、ドクンと跳ね上がった。