タクシー会社って在日企業が多いって聞くけど、この会社がどうかは知りませんが、
『レベル低いっぺー!』
っていうことは言える。
中学校の時は在日と喧嘩してたけど、韓流ドラマ観て考えが変わった・・・www
『アホか、お前は』ww
と言いながらも、僕の会社もここのガススタンドで世話になってるけどねww
何で自分達や周りの人が、この心優しい日本人が朝鮮人を嫌ってたか、先ず(そっちの方から考えんかいっ!お前はどこの国の人間や?
日本の中で「朝鮮人御断り」と貼り紙してる店やタクシーがあるか?ネットで台湾のタクシーが「韓国人お断り」って貼ってるの見たことあるけどね。
まぁこんな事やから、タクシー業界は自浄能力もないってことね。
一企業の社長がこういう自虐史観にまみれた短絡的な考えでしか反省できんから、いつまで経っても日本人が本当の反省ができん。朝日新聞が喜ぶだけ。
で、前回の続き・・・(山本七平「日本はなぜ敗れるのか―敗因21カ条」)
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「糧秣あと一食分となる」
二十日も好天に恵まれた。マンダラガンのジャングルの中で毎日雨に打たれ山蛭がはい回る陰湿な所に永く住んだ者には、日当たりの良いこの谷川は春の国に来た様な気がした。行き倒れが二、三人いる。糧秣は今日の昼食が終わると、あと籾が一握りか二握りしかない。一昨日山で見た畑まで早く出たいものとあせる。他の連中も気は焦っているが、体力がないので遅れがちだ。
我慢できなくなったので自分一人でどんどん歩き出した。ゲリラが樹上から狙撃するという事を聞いているので十二分に気を配りながら歩いた。突然ガサと木立がゆれた。ゲリラかと思わず拳銃の安全装置を外す。大猿が一匹こちらをみている。小さな山を一つ越えて別の谷川に出た。そこにも米軍のいた家が三軒ほどある。四、五十名は暮らしていたらしい。いよいよ畑は近いらしいが、敵のいる可能性も大きいので拳銃を片手に進んだ。後続はさっぱり来ない。
半時間ほど行くと林が切れて回開潤地が見えた。いよいよ敵地かと木の陰に隠れながら林を出た。一面甘藷畑だ。これで助かった、もう敵の事など忘れてしまった。手近かな芋を引き抜いて土も落とさず噛り付いた。甘い汁が舌に滲み通るようだ。三、四本続けて食べた。こうしてはいられんとあたりを見れば、木の皮で造った家やニッパーの家が十五、六軒見える。人がいる。倒木の陰から様子をうかがった。どうやら土人ではなく友軍らしい。おそるおそる近付いて行けば向こうの倒木の上に兵隊が仰向けにひっくり返っている。急に大声で「建設の歌」を歌いだした。もう安心だ。拳銃をザックに収めその兵に近づけば、昨日はぐれた当番の安達上等兵だ。
この辺の様子を聞けば敵はいず、爆撃もなく、甘藷やトマト、山芋、里芋、砂糖黍等たくさんあるという。ちょうど芋の焼けたのがあったので御馳走になる。甘藷がこんなに旨い物とは知らなかった。安達が砂糖黍とトマトを取ってきてくれた。腹が一杯になった頃、ポツポツ後続の連中が来出した。芋畑を見て狂喜して皆土の付いたまま生芋をむさぼり食べている。副島老等泣いて喜んでいた。「助かりました、助かりました」と言いながら。
空き家三軒に一同分宿した。当分ここで芋を食べ放題食べて体力を作ることとした。久々に床と屋根のある家に超満腹の太鼓腹をなぜながら、命が助かった喜びを語り合い寝た。この畑地を、生きる希望を得たという意味から希望盆地というようになった。
「希望盆地」
六月二十一日、鶏鳴に目を覚ます。「おい鶏がいるぞ」と、朝食の芋を皆で掘りに行く。
希望盆地はネグロス最大の河、バゴ川上流(の支流)マンダラガン連峰の南端にある。南にバゴ川本流を隔ててカンラオン山が見える。東南の傾斜面の五抱えも十抱えもある大森林の大木を切り倒し焼き払った後へ畑を作ったのだ。これは皆米軍のやった仕事だ。小髙い所へ登ってみると、南の方はこんな畑の連続で小屋も沢山見える。甘藷、カモテカホイ(キャッサバ)、トウモロコシ、里芋、太郎芋、陸稲、インゲン、煙草、唐辛子、ショウガ、カボチャ等が栽培されている。米軍の自活体制の規模の大きさに驚ろかされた。
毎日芋やカモテホイを腹一杯食べて、体力はめきめきと回復した。一日に三回くらい大糞をする程食べた。(中略)
台地の下の谷川にはドンコ、カニ、エビ、鰻、おたまじゃくし、ニナ貝等がたくさん居、一日にドンコの二百匹位釣るのは訳なかった。ドンコの乾物を作り坪井大尉の土産に持たせてやった。
「希望盆地を通過する人達」
自分たちがここへ根を下ろしてから、四、五日すると、毎日大勢の兵隊が山から出てきた。皆糧秣を失い、あるいは病気となりヒョロヒョロになっている。皆初めて見る芋をむさぼる様に生のままかじりついている。我々の家は小髙い所にあるので、彼らが登ってくるのが一目で見える。五十米の坂道がどうしても登れず泣きだす兵隊もいた。元気で重い荷を負ってくるのは六航通の兵隊だけだった。多い日は二百名くらいの兵隊がこの盆地に来、手当たり次第芋を掘って食べるので、一面の芋畑もすっかり食い荒らされた。我々の糧秣も毎日遠くの畑まで行かねばならなくなってきてた。希望盆地には椰子の木もあり、三階建ての大きな家もあり、この家には三階までかけ樋で水が引いてあり七十名くらいは入れた。
読み方によっては、何とも皮肉な記述である。「大東亜戦争は百年戦争である」とか「現地自活・長期持久」などと呼号していた日本軍には何一つ長期的な準備はなく、三年ぐらいで比島を奪還するつもりでいた米軍の方が、何年でも持ちこたえうる準備をしてゲリラ戦を展開していたとは。
―――さらに、彼らが捨てて行った基地にたどりついて、そこではじめて「希望」を感じて希望盆地と呼びながら、たちまちそれを食い荒らし、食いつぶしてしまうとは―――。しかしそれでも、この「人工の場」にいる間だけは、人間は、人間らしい感情を持っているのである。
そのことはまた、終戦の時の氏の記述にも表れている。人間が、人間としての感情を取り戻す第一歩は、死体に対する態度かも知れぬ。それは人間の文化の発生が死者への鄭重な埋葬にはじまる事にも表れているのであろう。氏は、終戦と同時に、死者への礼が復活し、それで、はじめて人間らしい感情を味わったと記しておられる。
「サンカルロスへ」
渡辺参謀、河野少尉等と共に歩く速度は実に早かった。船越らと歩くと余りゆっくりなのでかえって疲れたが、死臭がした、道端に外被をかぶせ日の丸で顔を覆った屍があった。今日まで見た死人は皆服や靴ははぎ取られていたのにこんな屍は初めてだ。久々に人間らしい感情が湧いた。夕方明野盆地に着き渡辺参謀と分かれた。
そして次に、氏がはじめて、「人情」を見るのが、敵兵の日本軍負傷兵への親切なのである。
「捕虜収容所へ」
九月一日未明、六航通関係全員が台上似整列、武器を持つ最後の宮城遥拝をし、中谷中佐の訓示あり、「我々は朝命により投降するのだから堂々と下山せよ。病人には二人づつの兵を付けよ」と、次いで銃の弾を抜き、コウカンを開き肩にかついでサンカルロスへの道を急いだ。延々二千三百名の行列だ。
途中土民たちが出てきて、これでもう安心したと言う様な面をしていた。三時間ほど山を下った所に米軍の出迎えが来てい、各中隊に二人ずつの米兵がカラパーン銃一つをもって付き添った。出迎えの米兵は親切丁寧だった。そして将校にはKレーション一箱づつくれた。十二時昼食レーションを初めて食べる。久々に文化の味をあじわう。
川を腰までつかって渡渉すること二十回、やっと平地に出た。我々の隊列の中に片眼、片足を失った兵がいたが米兵が彼の水筒に甘いコーヒーを入れてやり煙草に火をつけて与えていた。山の生活で親切などいう事をすっかり忘れていた目には、この行為は実に珍しい光景だった。久々に人情を見た様な気がした。
人という「生物」がいる。それは絶対に強い生物ではない。あらゆる生物が、環境の激変で死滅するように、人間という生物も、ちょっとした変化であるいは死に、あるいは狂いだし、飢えれば「ともぐい」をはじめる。そして、「人間この弱きもの」を常に自覚し、自らをその環境に落とさないため不断の努力をし続ける者だけが、人間として存在しうるのである。
日本軍はそれを無視した。そして、いまの多くの人と同じように、人間は、どんな環境においても同じように人間であって、「忠勇無双の兵士」でありうると考えていた。そのことが結局「生物本能を無視したやり方」になり、氏は、そういう方法が永続しないことを知っていた。
「日本は余り人命を粗末にするので、終いには上の命令を聞いたら命はないと兵隊が気付いてしまった…」それは結局「面従腹背」となり、一切の組織はそのとき、実質的に崩壊していたのである。
社会機構といい、体制といい、鉄の軍紀といい、それらはすべて基本的には、「生物としての人間」が生きるための機構であり、それはそれを無視したその瞬間に、消え去ってしまうものなのである。
(終わり)
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このような文章を延々と書き写したのは、最近のFBとかの投稿を見てると、日本軍が、日本の軍人が「素晴らしかった」というような投稿が殆どで、このような反省の投稿が殆どないからです。
確かに日本人の国民性から見ても世界一軍規正しい軍隊だったでしょうし、大東亜戦争の大義も素晴らしいものだっとと思います。しかし、兵站を無視したような作戦、食料もない、武器もない、更には戦地に着ける見込みも薄い中で、どんどん兵隊を送る。輸送船が沈没されて多数の兵士が死んでいってもまだ送る。ほかにも色んな反省点が一杯あるはずなのに、それをしない。戦後は武力を否定され、自虐史観にまみれて「戦争をした」ことが悪い!となって、本来反省しないといけない処を目隠しされてしまってる。
そして、その状態が憲法の話にしても、拉致問題の解決にしても、震災後の復興にしても、この前の人質問題にしても、全く進展しない、国民の命を大事にしない・・・そういうことに繋がってると思うし、自国民より外国人の方が優遇されてるような政治政策等々、今も延々続いてると思う。
『社会機構といい、体制といい、鉄の軍紀といい、それらはすべて基本的には、「生物としての人間」が生きるための機構であり、それはそれを無視したその瞬間に、消え去ってしまうものなのである』
そうならないように、今のうちに日本人として、その国民性を客観的に把握して、反省すべきは反省し、顕彰すべきところは正しく顕彰できる、靖国で「不戦の誓い」だけでなく、先人の行為を正しく顕彰できる、そして拉致被害者を取り戻す、先ず何よりも国民の命を真っ先に守ってくれる、そんな国になって欲しいと切に思う。
