就職活動は、大体この辺か?という目星がついてきたけどスピーディに進まなくてやきもきする。にしても、選ばしてもらっているという環境は非常に贅沢で、それをさせてくれる先輩も、許してくれる夫にもたくさん感謝して誠実に向き合おう。

 

さて、先日祖母が亡くなった。とはいっても90代半ばで大往生だったと思っている。いつ逝ってもおかしくないほどの高齢だったから、里帰りするたびに会いに行ってたし、実家から連絡が来るたびにいよいよか、と緊張することも度々あった。でも、私が留学から帰ってくるのを待ち、遅婚だった私の結婚式にも出てくれた。ひ孫を見せてあげることはできなかったけど、勝手に、「十分生きてくれたなあ」と思った。

 

いざ彼女が亡くなると、「実感がない」というのが正直な感覚だった。連絡を受けた時、感情的に涙をこらえる母とは対照的に、淡々と夫に連絡し、荷物をまとめ、今一度実家に帰る準備をした。そうやっている間に、彼女との思い出を思い出そうとして、一番の思い出ってなんだろう?一番楽しかったことってなんだろう?と思い返しているうちに、多すぎてわからなくなった。一番の思い出を見つけるのが難しいくらい、彼女との思い出は日常に溶け込んで、私の一生分を包み込んでいた。

 

小学生の夏休み、大阪の環状線の一番はしっこで、緊張する私を待っていてくれた。一緒にお風呂屋さんにいったり、ユニバーサルスタジオに行っておこのみ焼きだけ食べて帰ってきたり、夜桜を見たり、初詣にいったり、本町に出たり、海遊館へ行ったり、帰る日が近づくのが嫌になるくらいいろんな場所に連れて行ってくれた。私が美味しいと言った栗きんとんを、それから毎お正月に正直食べきれないぐらいつくってくれた。買い物に出ては「買うたろ」と言って服やお菓子を買ってくれて、遊びに行くたびに「お小遣い」といってあの長い指で1,000円を握らせてくれた。その長い指にマネキュアを塗ってあげた時は、少女のように喜んだ。自分はパンとコーヒーが好きなのに、ご飯が好きな私のために朝ごはんにご飯を炊いてくれた。両親が運転する車で家に帰る時は、窓越しにもう一度握手、振り返ると私たちの車が見えなくなるまで、じっとこちらを見ていた。毎朝、家中に飾ってある神様仏様にお参りするのを、私が起きてくるまで待っててくれ、私たちは一緒に祈った。ああ、あのお祈りお念仏の声をもう聞くことができないなんて、なんだかちょっと嘘みたいだ。

 

思い出す彼女は晩年の痩せた歩けない彼女ではなく、ふくよかでころころとよく笑う彼女の方が多い。ただそんな晩年になっても、会いに行くたびに顔を輝かせてくれた。人はいつか死ぬ。そして、その死に意味はない。でも、私はおばあちゃんが大好きだった。無償の愛をくれて、私はそれに応える術が本当にない。だから、死ぬまで覚えていてあげようと思う。