レールの上を歩いてきたから、外れることに関する不確かさ、よっての不安感が強いんだと思う。

 

「こうあるべき」「いつまでにはこうならないといけない」という、いつからか植え込まれた価値観に、自分が縛られていることを感じる。それが、本当に自分を幸せにするかどうかわからないのに、それに対して異常な執着心を感じてしまう。無理もない。自分のアイデンティティをその上に作ってしまったのだから、そのアイデンティティを手放すのにとても勇気がいるのだ。

 

同じように、キャリア街道まっしぐらの友人のブログを覗く機会があった。彼女とは大学時代、誰もが羨む企業から内定を手に入れたもの同士として励ましあったり不安を共有したりしていた。就職後もたまにあって話をしたりしていたのだが、気がつくと疎遠になっていた。

 

 

彼女はいつの間にか自分を手に入れて、勤めていた企業を辞め、今は医者になるために勉強をしている。そして、日々思ったことや気がついたこと、励まされた言葉をたくさん書いてあった。さーっと読んでいるだけで、なんだか前向きな気分になって、はっとさせられた。

 

 

レールに乗ることを心地良しとする自分は、苦しくなるとどうしてもネガサーチばかりしてしまう。自分のような境遇にある人がどのようなその後を送ったのか、自分より大変な人はいないのか、など平気で何時間も探してしまう。そして、そうやって見つけては少し安心する自分に自己嫌悪を抱いたりの繰り返しだ。

 

それに対して、彼女が綴る文章は、見た人を安心させるような、前を向かせるような、そんな言葉ばかりだった。そして、人と違ったり期待に応えられない自分を許す姿も。人生の選択肢は広いんだよ、過去も未来も存在していなくて、今この瞬間が幸せなことが大切なんだよ、と語りかけるような文章だった。

 

 

わっと自分が恥ずかしくなる。自分があるような振る舞いを見せて、いつも他人の価値観や人からどう思われるかに自分を縛られてばかりの自分は、一体何者なのかと。そんな自分を勝手にしばる気持ちを手放して、自分なりの前に進むための一手を打つことはできないか。まず、一歩だけでも。

 

今、自分の中でもんもんと考えた自分は、圧倒的にインプットが足りないと感じる。アイデンティティがふらつく自分を見せたくなくて、人に会うことが億劫になっていた。早く「人が求める自分」に戻りたいと思っていた。でも今は、弱い自分をさらけ出して、アイデンティティを少し手放して、人と会うことから始めてはどうだろう。優秀な私の友人たちは、いろんな角度から、「人生の選択肢は広いんだよ」を見せてくれそうな気がする。そして、そんな予感を感じさせてくれた彼女に、遠くから静かに感謝している。