地元大分に戻り手術をすることを選んだ父でしたが、
本当は手術も神戸の病院で受けたかったと思います。
私たち家族もできることならそうさせてあげたかった。
しかし、当時母には、家とショートステイを行き来する祖母の世話があり、私と姉には小さい子供がいたり、神戸に長期間滞在しサポートができる人がいない状況でした。
30年近く過ごした神戸から、バックひとつで帰ってきた父。
家具や家電に衣類まで処分して。
冬がきたらどうするつもりなのか?
冬まで生きていないとでも思っているのか?
母は驚きを通り越えて、呆れてブツブツ文句を言っていたが、母も私も父の気持ちがわからなくはなかった。
私たちの元に帰ってきた父は、大分にある唯一の大学病院で手術をうけることになった。
そこは私が看護師として初めて働いた病院で、今でも同期の数名が残っていたため、とても心強く思った。父が受ける手術の年間件数や術後の経過、医師の腕などいろいろと教えてもらいました。実際にICUでは、同期に看護してもらいました。きっと父も私と同様に心強く感じてくれていたと思います。
父の手術はかなり大がかりなものでした。
腫瘍は咽頭周囲にまで広がっていたようで、下咽頭、喉頭、頸部食道を摘出するものだった。
摘出した食道のかわりに、腸の一部を持ってこなければならないので、
耳鼻咽喉科と消化器外科の2つの科の医師でおこなわれた。
手術は朝一から深夜までかかり、17時間にもおよんだ。
術後は数日は呼吸器をつなげられ眠ったままICUで経過をみた。
眠ったままの父の顔は、腫れ上がり、どこかきつそうに見えた。
父の顔を見ながら、目を覚ました後のことを想像しとても不安な気持ちになった。
覚悟ができていたとしても、目を覚まして実際に声がでないと実感したときのショック
自分の言いたいことがうまく伝えられないもどかしさや苛立ち
食道代わりの腸で、ごはんを上手く飲み込めない、今まで好きで食べていたものが食べれない
照射による皮膚の状態から高まる縫合不全や感染のリスク
考え出したらきりがないほど、不安ばかりが押し寄せてきた。
そして、あんなに拒んでいた手術を受けなくてはならなくなってしまった、父の無念な気持ちを思い、悔しさと悲しさで涙がおさえられなかった。
その後、幸いなことに心配していた合併症はみられず、意外なまでに術後の経過は良好だった。
嚥下の訓練をおこない、柔らかく飲み込みやすい食べ物は、時間はかかったが飲み込めるようになった。
正確には、飲み込むというより、ビールで流し込むと言う表現のほうがあっているような。父は大のビール好きで、ビールはお茶がわりだった。
しかし、食べる量はぐっと減ってしまい、1食分を1日かけてやっと食べきるといった感じであった。
首元に永久気管孔があるため、肩までお風呂に浸かることができなくなった。髪を洗うのも慣れるまで少し時間がかかった。
気管孔に水が入らないようにするため、ビニールのケープを首に巻き、前屈みになることで、呼吸がしづらくなり、すぐに苦しくなってしまっていた。徐々に要領を得て自分ひとりで洗えるようになったが、かなりの期間は母が介助をしていた。
声を失った父は、口の動きで言いたいことを伝えようとした。これを理解することがなかなか難しく、すぐにわかることもあったが、何度聞き返してもわからず、父から"もういい"と言われてしまうことも多々あった。
筆談が一番確実な父とのコミュニケーションの手段だった。
しかし、父が積極的に筆談することはあまりなく、重要なことやどうしても言いたいことだけ、紙に書いて渡してきた。
私たち家族は、父がもっと楽に人とのコミュニケーションがとれるよう、電動式の人工喉頭の使用をすすめた。
しかし、父は"そんなものはいらない"と言った。
以前の自分の声とは違う機械的な声が嫌だったのか、それとも、父自身は必要性を感じていなかったのか...
私たち家族は、父の言いたいことがわからないもどかしさに耐え難く、機械的な声であろうと父の話がわかるならばと、何度もすすめた。それでも、父が電動式の人工喉頭を使うことは一度もなかった。
父は手術の前に、照射可能な最大限の量の放射線をあて、咽頭癌の化学療法で使えるすべての抗がん剤を使用していた。
そのため、術後は経過観察をしながら、再発がないことを祈ることしかできなかった。
主治医の"3年再発がなければ大丈夫だから"と言う言葉を励みにして、父は無治療の期間に入りました。
今年のひな祭りは、娘たちのリクエストにより手巻き寿司でお祝いしました
サーモンとイクラで親子巻き~
とご機嫌なほの姉ちゃん
カツと納豆、たまごにきゅうりではち切れそうなくらい大きな手巻きを作って食べたこはるちゃん
今年も娘たちとひな祭りを過ごせて、うれしかったです
デザートは、シャトレーゼのくまちゃんケーキ🍰

ふたりとも大喜びでした