西行が和歌においてしたこと、宗祇が連歌においてしたこと、雪舟が絵においてしたこと、千利休が茶においてしたこと、それらの道に根本的に貫くものは同一である。しかも俳諧におけるものは、自然のままに従って、四季の流れを友とするものである。見るものが花ではないということはない。思うことが月ではないことはない。(その人が見る)物の形が花ではない時は、野蛮人と同じである。心に感じるものが花でない時は、鳥獣と同類のものになる。野蛮人を抜け出して、鳥獣を離れて、自然のままに従って、自然に戻れというものである

芭蕉は日本人の思考の大本は縄文人の生き方、自然との一体化であると見抜いています。山を崇める日本人と山を征服する西洋人の思考とは相容れない、 自然の根源を破壊するような、思考は宇宙、自然とは相容れない不可思議な芸術を生み出し、それを良しとする風潮が現存していると思います。禅は達磨を起源としていますが、宇宙との一体化を禅(悟り)とする思考は日本の基底文化から生じたことと思います。合気道は動く禅と禅学者 鈴木大拙先生が喝破したのは、試合を否定した合気道の精神である和合、結び、愛、天の理法を体に移す思考を演武から感じたからだと思います。