合気道と日本文化とはどういう繋がりがあるのか、合気道が古武道の流れであることは隠しようの無い真実であり、その古武道を集大成して今日に至ったのが合気道ですから、日本文化の結晶と言っても過言ではないでしょう。では日本文化とは?…と問われた場合直ぐに答えられる人は少ないのでは無いでしょうか。禅は元々はインド仏教の流れだし、琴も三味線も雅楽も大陸伝来のようです。日本通の外国人に聞いた方が早いようです。外人〔主に西洋人〕に聞くと日本文化の代表は茶の湯、生け花、能、歌舞伎、日本庭園などの答えが返ってきます。外国人(西洋人)の意見を聞くと。茶の湯、生け花、日本庭園の共通のキーワードは「わび、さび」です、しかし、ではその意味はと聞かれて答えられた人を知りません。なんとなく解るが、つかまえどころが無いのではないでしようか。伝統というものは、普段意識していなくとも、はっきり目に見えなくとも、いつの時代になっても、姿、形を変えて続いていく生命力があるのではないでしょうか。わびを表現する代表的な歌に「古池やかわず飛び込む水の音」というものがあります。これは俗世界を越えた宇宙空間を表現していると説明されています。話を合気道に戻します、日本人の美学には、引き算の考え方があります。人工的な才気ばったものを削り取っていくと真実が見えてくるという考え方です。平安時代以降の木彫りは、一本の木を削り仏の姿を見出していく、円空彫りがあります。逆に、西洋の石膏彫刻は足し算です、目に見えない理想的な完璧な観念に向かって粘土を付け加えていく。庭園も日本は引き算、西洋は足し算です。では、合気道の稽古はと考えると、技の数だけでも、本当はいくつあるかわからない、実際に護身術として使える技は何だろうと考えると、合気道は足し算の西洋文化ではないのかと思うほど、理想的な完璧な観念に向かって技を増やしていっているようにも思えてくる。しかし、本当にそうでしょうか。植芝盛平開祖
は合気道がもし戦う場合、突き七割、投げ三割と述べている。では、普段稽古している技はいったい何なのでしょうか、人工的な才気ばったもの〔不自然なもの〕を削り取っていくと真実が見えてくるということです。ただし、合気道で言う いらないものとは、合気道の真実意外のもの、「真実とは理合です」。ただし、合気道の複雑な技は全て真実と繋がっています。即ち「多即ち一」です。一を学ぶために多を稽古しているのです。一を学ぶために一だけ学んでもできるようにはならないことを、合気道の稽古は教えています。試合形式のものは、そこが欠落してしまったのです。その稽古の積み重ねの至るところに「造化にしたがい四時を友とする」という日本文化に共通する縄文時代から流れる伝統が見えてきます。
円空彫の仏(弥勒菩薩)里見道場展示