上泉伊勢守信綱は安中城攻めの際に、安中左近大夫忠成に一番槍をつけ、これを討ち取って「上野国一本槍」の感状を受けるなど信濃や甲斐にも聞こえた実力者で、箕輪城〔箕郷町〕落城後武田家の誘いを断り、武芸者として頭角を表し、足利将軍を門下としたので天下一とうたわれました。
箕輪城の井戸(左)で武田の永禄九年の攻撃によりここで武士の多くが自刃

長野業盛の母(伝 里見河内守の娘)は武田の家臣(高山源蔵)を打ち取って果てたと言われています。戦国の女性は気丈でした。


門下とし、徳川の剣術指南役の柳生家の柳生新陰流の元となった柳生新陰流の祖であり、現代の剣道にも繋がる大変な人物ですが地元では名前は有名
だが功績について知っている人は少ない。当時近畿第一と言われていた柳生宗厳と弟子の疋田文五郎との立会いは圧倒的な差で上泉新陰流の勝利で上泉伊勢守と手合わせすることもできないで終わってしまった。その縁で将軍足利義輝、義昭二代の師範として天下一の称号を得ることとなった。その後日本の武道の元を訪ねると70%は信綱の新陰流に繋がっていると言われています。