武術が発展したのは家族、地域を守るためです。道場のある長野郷地域は戦国時代に武田軍が永禄2年から9年にかけて毎年盗賊として家財、食料略奪や人さらいまでやりたい放題で地域住民を悩ましました。このような状況のなかで(上泉信綱(箕輪城の雇われ武士)の新陰流(護身術)元祖)が長野地域で誕生しています。当時の武士は屈強なファイターとして武田軍に対抗していましたが寄せ集めの連合軍の箕輪城は永禄9年に落城し生き残った武士は武田軍に属し対織田、徳川との戦い(長篠の合戦、天正三年)で先鋒を任されほとんど撃たれて戦死しています。鉄砲には屈強なファイターも役に立たなかったようです。西上州武士は織田(滝川)→北条→徳川(井伊)と時代とともに数を減らしていきました。