想田和弘氏の
『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)を読んだ。

想田さんのドキュメンタリー映画は「観察映画」というもので、どうしてドキュメンタリー映画で、しかも観察映画なのか?というところの、解明が書いてある。

テーマをきめないで、事前の調査リサーチをせずとにかく撮り始めて、音楽字幕ナレーションなどもいっさい使わず説明しない、「観察映画」という言葉は、おそらく想田さんが言い出したものと思われ、より積極的に使っている。
そういうドキュメンタリー映画は想田さんが始めたわけではなくて、
フレデリックワイズマンという先達者がいる、そうだ。けれども、想田さんは、想田さん自身の自分で決めた10戒を課して、想田さんの方法論を確立している。
ワイズマンとの大きな違いは、カメラ目線だ。
ワイズマンはカメラ目線を排除するけれど、想田さんは、殊に二作めの『精神』においてカメラ目線を、むしろより採用するようになった。

私は、私自身の幼児体験から、「どうして映画館で映画を観たいのだろう?」という思いがあって、そういうところから「映画とは?」とかいろんなことを考える様になって、ひいては、「体験」「現実」「記憶」などを考え、「見ることとは?」にも興味関心が大いにある。
そういう私にとって、「観察映画」という映画が、私の興味関心をそそるのは当然なのだ。けれども。
私は、『選挙』と『精神』をDVDで見ているけれど、正直なところ、やっぱり?今一つ私の琴線に触れて来なかった。何故か?
興味関心の度合い範囲の違い、だと思う。
その人にとってどんなに面白く貴重な体験であっても、他者にも興味関心(そして共感)がなければ、それは個人的なことに留まる。
勿論、伝え方にもよるだろう。
映像ではどうか?
映像もしかりだ。
ましてや、有料での上映であれば尚更。
自分に興味関心がないことに、わざわざ出かけて行ってお金を払う様な人は、まずいないだろう。何らかの避けられない事情でもない限り。その場合は仕方なく観に行ったことになる。それで観てみたら以外にも面白かったと思えた、場合もあるだろう。
ともかく。音楽も字幕もナレーションもない様なドキュメンタリー映画を、わざわざお金を払って観に行く様な人は、初めから、その映画に興味関心が少なからずある人、だろう。
私はそうでもなかった、ということになる。・・?
いや。私の見方が変だった、気がする。
観察映画、であるならば、観客はより積極的な映像受容体験を必要とするのだ。
例えば、『ダイハード』とか『スピード』とかの映画の様に、その時映画映像を見せられて「あ~~~面白かった」で終わるものではない、ということだ。
そういう映画はそういうふうに造られているのだから。

で、観察映画。
こういう、観客のより積極的な映像受容体験を必要とする映画を、わざわざ観に行くということは、今の私にとっては、ほぼあり得ない、と言える。
わざわざてまひまかけて「観察映画」を観に行こうとは思えない。
・・昔、イングマルベルイマンの映画を観に行って寝てしまったことが思い出される。

つまり、私が映画館にわざわざ出かけて行くのは、自分の現実から遠ざかって、一時の「あ~~~面白かった」を得たいがため、なのだ。

しかるに。
映画を観るとは・・?

「観察映画」であるということを念頭に、再び想田さんの映画をみてみようと
思っている。


想田和弘https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%83%B3%E7%94%B0%E5%92%8C%E5%BC%98

東大新聞。想田氏へのインタビュー記事
https://www.todaishimbun.org/soda150930/