【由颯 愛妃の高校生(学校編)】
公立の学区外受験に失敗した私は
絶望のまま入学した
あと3年我慢すれば自由になれる
あと3年の我慢
という言葉だけが支えだった
担任の先生に恵まれ
成績が伸びはじめた
高校2年生へ進級する際
一般クラスから
進学クラスへの編入が決まった
これで頭の弱い人たちとは
オサラバ出来ると浮かれた
高校2年から卒業するまでの2年間は
楽しかった
1年生の時の担任から
いただいた手紙が宝物だった
「あなたは他の人と目のつけどころが違う」
この言葉は、今でも私を支えている
幼少期からのストレスも
限界に近づきはじめたのか
少しずつ生活が乱れはじめた
テストで学校が午前中で終わると
必ず友達とカラオケ歌広場へ行った
家を朝めちゃ早く出るにも関わらず
わざと遅刻をした
遅刻しているクセに
「コンビニで買っていくものある?」
と友達にメールをした
学校での飲物は
リプトン500ml入の
紙パックの紅茶に
ストローをさす方式を採用した
テストは一夜漬けタイプ
いや
浅漬けタイプだった
テスト当日の早朝に学校へ行き
誰もいない教室で
2時間ほどみっちり
浅漬けを仕込むスタイルだった
成績はいつもクラスで3位以内
もちろん学年全体でも同様
テストの答案返却時に
トップ成績者として
名前を呼ばれるためだけに頑張った
政治経済と
英語の先生が大好きだった
職員室に足しげく通い
テスト範囲や対策を確認した
英語の先生には授業とは別で
英語日記を添削してもらった
私と先生の交換日記のような感じで
先生からの添削メッセージと
教室まで届けてもらう事が
嬉しくてたまらなかった
古典と英語文法の先生が嫌いだった
もちろん成績にも響いた
だけど平均点はキープした
もともと持っていた
私は他の人とは違う
という感覚がより一層強まった
一匹狼的な自分と
グループに混ざる自分を
無意識に使い分けた
カメレオンか?!
お弁当は2時間目が終わった後に
早弁が基本だった
お昼休みは売店でパンなどを購入し
猿山のように集まる女子の中で
メイクをした
放課後は学校指定のハイソックスから
ルーズソックスに
履き替えることからはじまった
生活指導の厚化粧の先生に
ネックレスを没収されること複数回
頭をおもいっきり殴られたこともあった
今思うと
あれは体罰ではないだろうか
部活はやらず
サイゼリヤでバイトに励んだ
学校とアルバイトという
2つの居場所があったからか
学校に集中しすぎることなく
自分らしく過ごせた
時にバイトに励み
時に友達とバカ騒ぎをし
学校生活が楽しいと思えたのは
生まれてはじめてだった
クラスに馴染めたことも
生まれてはじめてだった
大学への進学が期待され
推薦も選び放題だったが
一刻も早く自立したい私
大学へ進学する選択肢はなかった
奨学金をいただき
働きながら
夜間の専門学校へ行く道を選んだ
高校の卒業式
はじめて楽しかった学校生活
卒業式ではクラスの友達と号泣した
そんな様子を
笑いながら父は写真撮影していた
泣いてる私を撮影するのが
おもしろかったようだ
どこまでクソなんだろうか
入学時は絶望でしかなかったけれど
楽しい高校生活が送れたことに感謝した
大好きだった友達
大好きだった先生
アオイハル(青春)をありがとう
大好きだった友達とは
私が交友関係を断捨離した関係で
今も繋がっているのは1人だけ
まあ、それも私らしい
楽しかった思い出が朽ちることはない
必要ならば
再びご縁があるだろう
【由颯 愛妃の高校生(生活編)】
幼少期からのストレスが爆発し
家族ごっこの時間を避けるようになった
家事手伝いもせず
家族ごっこ行事にも参加せず
学校とアルバイトの生活
22時までのアルバイト
帰宅が22時30分を過ぎると
自宅のベランダから
帰宅を未だか未だかと見張られた
窮屈で窮屈でたまらなかった
家族という名の
牢獄からはまだ出られなかった
【由颯 愛妃の社会人1年生編】
高校卒業後は
ホテルの夜間専門学校に進学した
昼間は都心のシティホテルで働き
学校の最寄り駅にある大戸屋で夕食を摂り
夜から専門学校に通った
(大戸屋ランチが安くて大好物だった)
朝5時過ぎに自宅を出て
バイト先のホテルまで
電車内で1時間爆睡して
ホテルでほっと一息ついて
7:30から働いていた
定時は確か、16:30~17:00
学校の最寄り駅まで移動し
小一時間夕食を兼ねた休息を摂る
学校を終えて帰宅するのは
23時前
帰りの電車も
もちろん爆睡した
翌日の準備と寝る支度をして就寝
自宅の滞在時間は6時間ほど
自宅には
ほぼ寝に帰っている状態だった
学校はつまらなかった
だけど
社会に出てお金を稼いで
好きな物を買って
好きな物を着て
そんな毎日が
楽しくて仕方なかった
学校では
一匹狼っぷりを発揮した
私のホームグラウンドは
バイト先のホテルだった
【由颯 愛妃の社会人(仕事編)】
専門学校は1年で中退した
理由はつまらなかったから
学校で学ぶより
社会生活で学ぶことの方が
楽しくてたまらなかった
そうそう
1年生の後半も実習制度を活用して
学校にはほぼ行かなかった
夜間の専門学校に通ったのは
実質半年
両親からは
「やっぱりあなたは何も続かないのね」
と罵倒された
続かなくて結構
無理やり結婚生活を継続している
お前らよりはマシだと思っていた
父はリストラされ無職
母は十数年振りに働きに出ていた
互いを
バカにし合う両親から学ぶことは
もはや何もなかった
アルバイト先のホテルの偉い人が
チャペルをオープンさせることになった
幸いにも
正社員を前提にと声を掛けていただき
オープニングスタッフとして
採用していただいた
ウエディングプランナーとしての
輝かしい未来に期待した
それも束の間
ブラックだったその会社を
半年で辞めた
そこからは
派遣社員として転々とした
やりたい事が分からない病を患った
高卒、専門中退の私には選択肢が少なく
何がやりたいかよりも
何が出来るかという基準でしか
選ぶことが出来なかった
でもその中でも
自分は優秀だという自負があった
その辺の人よりも
使える人材という自負があった
派遣社員の中では優秀な自分でいる
そのアイデンティティを確立した私は
それなりの職場で
それなりのお給料をいただいてきた
ドコモショップ
演劇の劇場
空港の売店
コンビニ
営業事務
再びホテル
取材・制作
一般企業でサポート業務
さまざまな会社で働いた
だけど
長くても3年しかもたなかった
飽きてしまうのだ
ある程度続けると
その会社での自分の限界点が見えてしまい
急劇に飽きてしまうのだ
だいたい私が選ぶ仕事は
最初と最後だけ指示をもらい
途中経過を任せてもらえる仕事だった
業種や職種は問わず
働くスタイルとお給料で選んだ
どの職場でも評価は高かった
契約更新を熱望された
だけど
どの職場でも派遣から
直接雇用にしてもらえなかった
そこらへんの正社員より
働いていたのに
そこらへんの正社員より
会社に貢献している自負があったのに
不満しかなかった
そういう気持ちが
きっと伝わっていたのだろう
急劇に興味を失くした私は
新しい居場所やチャレンジを求めて
職を転々とした
それが便利屋であることに
気がつかずに
薄給で
よく働く派遣社員
私は便利屋としての
経歴を重ねていた
【由颯 愛妃の社会人(生活編)】
何社目だろうか
ドコモショップの研修で知り合った人に
新店のオープニングスタッフに誘われた
自宅から店舗までは2時間
よし、家を出る理由が出来た
家族ごっこなのに
牢獄から出ることが許されなかった
父に必死にプレゼンするも
難癖つけて
父は私を手放してはくれなかった
成人していた私は強行突破した
水面下で引越しの準備を進め
家族全員が外出する日を見計らい
手紙を1通残して家を出た
その手紙には
引越し先の住所を書いた
書かないと
牢獄に連れ戻されそうだったからだ
悪い事はしていない
家を出るのに
理不尽な父の了解はいらない
正々堂々正面から強行突破してやった
はじめてアパートを契約する時の
ドキドキは今でも忘れない
あれはきっと、
怖いはGOの感覚だった
こうして思い返すと
知らない間に怖いはGOを
積み重ねていたのかもしれない
強行突破して自宅を出たにも関わらず
やっぱり家族のことが気になった
母や祖父母が入院した際は
進んで駒になった
お見舞いに行き
役所へ手続きに行き
家事をこなした
セカンドオピニオンの
病院を探した
時には会社を休んだり
会社を辞めてまでも
駒になった
最終的には
祖父母の葬儀を取り仕切った
祖母の葬儀の際
施設にいる祖父の葬儀参列の説得や
施設の人とやりとりした
やることがあって嬉しかった
役割があって嬉しかった
完全に感覚がマヒしていた
長年家族に尽くしてきた
家族をまわしてきたからか
仕切ることが快感だった
段取りすることが快感だった
家族を仕切る
それが私の役割だと
思っていた
そこに、私の価値
存在意義を見いだしていた