本日、大阪歴史博物館で「前期難波宮・藤原宮の儀礼と空間構成」を拝聴する。

なかなか濃い内容のシンポ。

市さんの報告は、相変わらず史料解釈が細かい。しかし、史料を時系列で読み、造営の進行に合わせて考えると、儀礼の方法の変化が読み取れるというもの。私も造営過程については、考古・史料をリンクさせて考えたことはあったが、ここまで細かく見れるとは、スゴイ!

李さんの報告は、これまで漠然とわかっていた朝堂と朝庭の関連性を、数字で明記されたことは納得できる。また、複廊については、通行を意識していたと思っていたが、荘厳性の観点からも指摘できる点は、なるほどと思う。さらに、発表では触れられなかったが、藤原宮の設計がいつできたかという問題は、李さんが言うようにはややこしくない。天武11年には、造営運河が掘削されているので、この段階では、設計図ができていたと考えるべきで、当然、前期難波宮は存在しており、あるいは設計図も残されていたのかもしれないと思う。

廣瀬さんの報告は、これまでも論文にも記されている内容であるが、藤原大極殿=「大安殿」は、私の同じでよかった。市さんは、大安殿は、内裏正殿だと思っているようだが。

海野さんの報告は、楼閣建物が中心。楼閣というと二階建てをイメージしていたが、必ずしもそうとは限らないということを前期難波宮八角殿から検討する。もうひとつおもしろかったのは、エビノコ大殿を西入の建物で、妻側が正面という考え方。これま斬新。ただ、大嘗宮が内裏の中にあった説は如何なものか。

討論では、いくつかのテーマをあげられていたが、正殿群の性格の問題や脇殿の問題など、いずれも、系譜の中で検討する方が議論は進んだとおもう。前期難波宮の内裏後殿が後の内裏正殿に繋がることも系譜を考えるとわかりやすいとおもうのだが。ちなみに内裏正殿は「内安殿」に比定できるとおもう。さらに小墾田宮の構造は朝堂院がないタイプで、発展系列上では、前期難波宮がイレギュラーと考えるべきであろう。小墾田宮が正方位が斜方位かは、明確な遺構がないとわからないが、私は石神の東に推定しており、部分的な検出遺構によると正方位だと思う。ただし、次の飛鳥岡本宮は斜方位なのは、小墾田宮は真東西の山田道に面しているのに対して、岡本宮はそうではないことに起因するのであろう。この他にも、新たな気づきなど、内容の濃い話であった。