抜刷「新城の造営計画と藤原京の造営」を頂きました。ありがとうございます。
この論文のポイントはいくつかある。しかし、若干疑問な点もある。ひとつは新城条坊を天武初年まで遡る可能性を指摘していること。その根拠は、状況証拠と四条古墳の埋めて土から出土する飛鳥3
の土器。しかし、飛鳥3もあるが5もある。これをもって、四条遺跡でも天武初年まで造成が遡るかは難しい。むしろこの地域では、調査事例の多い飛鳥4段階、天武末年の造成、飛鳥5の条坊施工でよいと思う。史料にも見られないので、天武初年まで遡らすのは難しい!
また、「都」を「宮」と読み替えているが、これもどうであろうか?そして、藤原京がはたして、最初から十条十坊の正方形で中央に宮を計画していたかは、疑問である。
やはり、新城の方形街区を拡大整備したものが新益京だと思うのだが……。
この辺りは、本のなかでも書いておいた。
この論文のポイントはいくつかある。しかし、若干疑問な点もある。ひとつは新城条坊を天武初年まで遡る可能性を指摘していること。その根拠は、状況証拠と四条古墳の埋めて土から出土する飛鳥3
の土器。しかし、飛鳥3もあるが5もある。これをもって、四条遺跡でも天武初年まで造成が遡るかは難しい。むしろこの地域では、調査事例の多い飛鳥4段階、天武末年の造成、飛鳥5の条坊施工でよいと思う。史料にも見られないので、天武初年まで遡らすのは難しい!
また、「都」を「宮」と読み替えているが、これもどうであろうか?そして、藤原京がはたして、最初から十条十坊の正方形で中央に宮を計画していたかは、疑問である。
やはり、新城の方形街区を拡大整備したものが新益京だと思うのだが……。
この辺りは、本のなかでも書いておいた。