「倭京の守り-古代都市 飛鳥の防衛システム構想-」
『明日香村文化財調査研究紀要 第4号』(2004年)
明日香村教育委員会

 飛鳥東方丘陵上において掘立柱塀を確認したことを契機に、飛鳥地域の防衛構想について検討したものである。
 天武天皇は、「政の要は軍事なり」と称している。これは、白村江や壬申の乱を乗り越えてきたことが大きい。そこで、本稿では、律令国家の軍事組織について概観し、また、7世紀の各時期における国際情勢や軍事施設についてみた。その結果、やはり白村江前後が最も国際緊張にあったことがわかった。これらを踏まえて、近年丘陵上で確認される掘立柱塀やのろし施設について検討した。これらの遺構は、自然地形も利用しながら、飛鳥を囲むように巡る可能性を指摘した。「羅城」的施設ある。さらに岸俊男氏がすでに検討していた「ヒブリ山」地名も、のろし、監視施設であることを再検証した。そして、濠や寺院も臨時に防衛施設になることを指摘した。
 これらを踏まえ、飛鳥の防衛は、北部九州から瀬戸内に展開する山城、生駒・葛城山系からとそこから飛鳥までの監視システム、そして羅城・寺院・運河などの三重構造をとると理解した。ただし、飛鳥で掘立柱塀によって守りたかったのは、王宮と官衙(関連施設)だけで、都部分ではない。この思想は、次の藤原京にも通じており、藤原京には羅城はなく、藤原宮を取り巻く宮城大垣と内濠・外濠がある。飛鳥から藤原への系譜をたどることができると論証した。