さて、飛鳥寺西の内容が発表された。槻樹広場で初めて建築物が確認されたのである。しかし、平面積はそれなりの広さがあり、同規模の2棟がならんでいるので、この地域ではじめての建物遺構となる。
しかし、柱穴は形が様々で、柱間も不揃い。さらに深さも浅いことから、仮設建物の可能性が高い。時期を特定できないので、斉明朝の儀式や壬申の乱時の仮設建物という位置づけが妥当である。
ただし、頭の片隅では、ひとつの疑問があった。、本当に「建物」なのだろうか?
柱穴が、みょうに陳腐である。例えば、儀式用の幕を張る柱だけとか。屋根のつく構造ではなかったのではとも考えられる。
ここで、ひとつ興味深い事例をイノクマ先生に教えていただいた。これは案外いけるかも、と思っている。
このあたり当然は「旬」に書かねばなるまい。週末にがんばります。