石田由紀子氏の論考「藤原宮における瓦生産とその年代」(『文化財論叢4』)を読んだ。
藤原宮の瓦の生産開始時期と造営過程について検討したものである。これまで藤原宮の瓦の生産地については、いろいろ検討されており、宮中枢部よりも大垣の瓦が古いことは指摘されていた。しかし、今回の検討で、藤原宮の造営が瓦から詳細に判明してきたことはおもしろい。
論点は多岐特にわたるが、瓦からは天武5年の先々行条坊の段階では瓦生産ははじまっておらず、天武末年には東面大垣の瓦が宮内に運び込まれている。大垣は東・北面から建築が始まり、随時西へと整備されていく。西南隅の大垣が整備されるころに大極殿などの中枢部の瓦が運び込まれるというものである。
ここで注目したいのは2点。大垣の建築が東・北面から西へと整備され、南西隅に達することである。大垣建築が東から西へと整備されることに意味があるのだろうか。ひとつ考えられるのは、藤原宮の立地である。東面が立地がよく、南西が飛鳥川にちかく立地が悪い。やはり飛鳥川に近い立地の悪いところを最後にしたのであろうか。
もう一点は、宮中心の造営運河の下層・中層では中枢部の瓦は出土せず、上層の最終埋め立てには含まれる。このことは、この運河を利用して瓦は運び込まれていないことを示している。造営運河といいながら、造営資材の瓦運搬には利用されず、木屑などがあることから、主として木材の運搬に利用したのであろう。確かに、瓦は運河で運ぶより、瓦一枚一枚の単位は小さいことから、陸路で運ぶ方が適しているかもしれない。
このように、石田論考の指摘を参考にすると、興味深い展開がまだまだできそうである。藤原宮の造営過程がよりリアルに解明される日も近いかもしれない。