平城京の造営拠点である造京司が朱雀門のすぐ前で確認されたらしい。確かに、場所的には超一等地である。こんな所に工房があったり、倉庫があったり、そして、遷都直後の10から20年の間だけ存続したらしい。この役所の構造がわかれば、都の造営の様子が復元できるかもしれないので、おもしろい成果である。
 平城京を作る役所は見つかったが、藤原京はどうであろうか?さらに飛鳥の宮の造営はどのような方法だったのだろうか?飛鳥の宮についてはまったく判らない。しかし、百済大宮と大寺では、東の民と西の民が造営に参加したことが記され、さらに東国から西国までの人々を動員して作った宮もある。なぜこのようなことを気にするかというと、飛鳥の個々の宮の充実度(規模や構造)は造営期間や動員体制に大きく関わっていると思うからである。
 最近は、各所で黒崎氏の飛鳥の方格地割りの話が盛り上がっている。この地割論がどこまで現実採用されたのかは判らないが、課題点もいくつかあり、まだ、全面的に受け入れがたい。某所では方格地割がありながら、なぜ岡本宮は斜方位なのかと疑問を呈していた。地割論の賛否はともかく、岡本宮が斜方位であることに対して、最近はほんとうだろうかと思っている。岡本宮は正方位で造営されているのではないかと……。小墾田宮も正方位、岡本宮も正方位の可能性はないのだろうか、と思う今日この頃である。いずれにしても宮の造営、京の造営は興味深いテーマである。このあたりは、某所の次期連載に書こうか……。